この言葉とこれと同じ他の言葉らは、イエスがこの世に出生する前に天に形態的に存在していたと誤った考えを支持するのと曲解しています。しかし、次の論点に注目しなければならないのです。
1.三位一体論者たちは彼らの論点を立証するためにこの言葉を文字通りに取り扱っています。しかし、私たちがそれらを文字通りに取り扱えば、イエスが文字通りに空を通して地に浮かび降りたと言う意味になります。聖書にはこれにはなにも記録されていないばかりなく、またイエスが胎児としてマリヤの子宮に妊娠されていたと言う言葉の意味がなくなるのです。ヨハ.6:60はマナに対する教えが"実に理解出来ない"言葉であると描写されています。私たちはそれが比喩的言葉であると理解しなければならないのです。
2.ヨハネ6章で、イエスはマナが彼自身を指し示す予表であると説明しています。そのマナは彼らの要求に応じて神がこの地で造って送って下さったのでした。それは実際天の神の御座から浮かび降りた物でなかったのでした。これと同じく、キリストが天から来たのも理解しなければならないのです。彼は聖霊がマリヤの子宮で作用するによって、この地で創造された者でした(ルカ.1:35)。
3.イエスは"私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである"(ヨハ.6:51)と話しています。三位一体論者たちは神の一人であったイエスが天からこの地に降りて来たと主張しています。しかし、イエスは天から降りて来たパンは彼の"肉"であると話しています。それと同じく、イエスは'神である子で'なく、"人の子"(ヨハ.6:62)として彼自身が天から降りてきたそのパンと結合しているのです。
4.ヨハネ6章にあるその句節にはイエスが神と等しくなかったのを現わす多くの証拠があります。"生きて居られる父が私をお遣わした"(ヨハ.6:57)と言うのはイエスと神が等しくないのを示しています。"私は父によって生きる"(ヨハ.6:57)と言った事実は三位一体論者たちが話しているイエスと神が'同じく永遠である'と言う事は理解出来ないのです。
5. では、'いつイエスが天から降りて来たのですか'と質問が起こるでしょう。三位一体論者たちはイエスが彼の出生に天から降りて来たと立証するにヨハネ6章にあるこの句節を利用するのです。しかしイエスは"天から降って来た"(33,50節)と、ちょうど進行中の過程のように、彼自身に関して話しています。イエスが神の賜物であると話すのに対して、キリストは"天から真のパンをあなたがたに与えたのは私の父である"(32節)と話しました。その時イエスがこの言葉を話したのは、彼が神によってこの世に遣わされて、既に天から降りて来たのを意味しているのでした。これゆえに、彼はまた過去時制で話すことが出来たのでした。"私は天から降ってきた生きたパンである"(51節)。しかし彼はまた十字架での彼の死の形を天から降ってきたパンとして"降って来た"と話します。"私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である"(51節)。従って私たちはイエスは既に天から降って来たパンであり、また降りて来る過程にあることと、まだ十字架による彼の死で降って来なければならないパンであることを話しているのを分からなければならないのです。この事実は、キリストの出生に関することだけでなく、神自身の顕現で'降りて来た'のを立証するのです。これは、神が降って来たと話したのがこれと同じく意味している旧約聖書のすべてを結論的に立証しています。このように神は彼の民がエジプトで苦しんでいるのを見て、モーセを通して彼らを救うために'降りて来ました'。彼は私たちが罪の奴隷になって苦しんでいるのを見て、イエスを遣わすによって、モーセが彼らを束縛から離れ出したように、私たちが罪の束縛から離れ出るように、彼自身私たちに現れました。