聖書 基本 知識 学習 7:イエスの起源 イエスに関する旧約の予言 | イエスの出生 | 神の計画にあるキリスト | "初めに言葉があった" | 間違った解釈(歴史的イエス, "天から来た者", イエスが地を創造した, アブラハムの前にいた者, メルギセデック)| 問題と解答 |
7.2 イエスの出生キリストの受胎と出生に関する記録は彼が出生する前既に体を持って存在したと言う考えを承認しないのです。いわゆる'三位一体説'の偽りの教理を持っている者たちは、いつか天に三人の神がいたが、その内の一人がその二人の神を離れて、胎児形に変わってマリヤの子宮に入ったと言う結論に追いやられるのです。私たちは、神を始めに、すべて存在する物は皆形体があると聖書が示しているのを信じます。それゆえに、私たちは天に一つの形体的存在であったキリストが地に降りてマリヤの子宮に入ったと言うキリストの'先在説'を信仰することが出来ないのです。この複雑な神学説は皆聖書以外の教えであります。キリストの起源に関する記録は形体的存在の彼が天を離れて来てマリヤに入ったと言う概念が全然ないのです。これに対する証拠を三位一体主義者たちが聖書で到底見出すことが出来ないのです。
イエスが彼の出生において神の子になるであろうと二度も強調されています。彼が出生するまで確かに神の子は存在していなかったのでした。また多くの未来時制が必要であったのに注目しなさい、例を上げれば、"彼は大なる者になるであろう"と。もし天使がマリヤにその言葉を話す前にイエスが既に形体的に存在していたとすれば、彼は既に大なる者になっていたでしょう。イエスは"ダビデの子孫"(啓.22:16)でした。ギリシャ語の'genos'はイエスが'ダビデから出て来た'のを暗示しています。 イエスの受胎 聖霊(神の息/力)がマリヤに作用して、彼女は男と関係がなくてもイエスを妊娠することが出来ました。これで、ヨセフはイエスの真の父でありませんでした。聖霊はある人格者でないことを知っていなければならないのです(学習2を見なさい)。イエスは聖霊の子でなく、神の子でした。神は彼の霊をマリヤに使用したのですから、彼女から生まれ出る者は"それゆえに、聖なる者"、"神の子と、称えられる"のでした(ルカ.1:35)。ここに使用した言葉、"それゆえに"は、マリヤの子宮に聖霊の作用なしには、イエスが神の子として生まれることが出来なかったのを暗示しています。 イエスはマリヤの子宮に受胎されのは(ルカ.1:31)また彼がこの時前に形体的に存在していなかったのを立証するのです。もし私たちがある考えを'心に抱く'なら、それは私たちの内で始まるのです。それと同じく、イエスはマリヤの子宮に受胎され、そこで彼はちょうど他のすべての人と同じく、胎児として始まりました。ヨハ.3:16の聖句は有名な句節ですが、イエスが"神の独生子(begotten son)"であったと書かれています。この句節を暗記している人は数知れないほど多くありますが、それが暗示している意味は全然分からないのです。イエスが"独生子(begotten son)"と言われたのは彼がマリヤの子宮に受胎された時彼が始まったと言うことです。もしイエスが彼の父、神によって始まったとすれば、神は始めや終わりがないから(詩.90:2)、これは明らかに彼の父なる神が彼より老いたのを立証しているのです。それゆえにイエスは神のに子になることが出来ないのです(この点に関しては学習8で説明しています)。 イエスが、アダムのように創造されたのでなく、神によって"始められた"と言うのはとても意義があります。これはイエスが神と親密であることを説明しているのです。"神はこの世を彼自身に和解させるために、キリストの内におられた"(コリ后.5:19)。キリストは土から創造されたのでなく、神によって始まったために、彼は彼の父神の道を行うに適当な神の素質を持っていたと説明出来るのです。 イザ.49:5、6にはイエス.キリストがこの世の光であることが予言されていますが、彼はそれを成就しました(ヨハ.8:12)。彼は"ヤコブおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、私を腹の中から造って、その僕とされた主は言われる"と自身に対して瞑想していました。従ってキリストはマリヤの子宮で神が聖霊の力を通して造られた者であります。マリヤの子宮は確かにキリストの形体的存在が始まった所でした。 私たちは詩.22篇で十字架の上のキリストの考えに関する予言を学習7.1で調べて見ました。彼は"主は私を生まれさせ、私は母の胎から取り出され、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです"(詩.22:9、10)と熟考しました。彼が死ぬ時、キリストは彼の起源に対して、彼の母マリヤの子宮で、神の力によって造られていたことを回顧して見ました。キリストの"母"として福音書に書かれているその描写自体が彼をマリヤから生まれる前に存在したと言う考えを打ち破っています。 マリヤは正常的親を持っていた一人の普通の女でした。これは一人の普通の人、バプテストのヨハネを産んだ、彼女の従姉妹がいた事実から良く立証されます(ルカ.1:36)。マリヤが普通の人間の本性を持っていなかった女であったと言うローマ.カトリック教の考えはキリストが"人の子"と"神の子"共になることが出来ないのを意味しています。これは新約聖書に彼の名として度々現れています。彼は人間の母を持っていたから、"人の子"であり、神の聖霊の作業によってマリヤから生まれたから、"神の子"であり、また神が彼の父であることを意味します(ルカ.1:35)。もしマリヤが普通の婦人でなかったら、この美しい神の計画は果されなかったでしょう。 "誰が汚れたもののうちから清いものを出すことが出来ようか、一人もない。... 人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生まれた者は、どうして正しくありえよう"(ヨブ.14:4; 15:14; 25:4)。これはマリヤやあるいはイエスが無垢の状態であり得ない概念を示しているのです。 マリヤは普通の親から"生まれて"、私たちの汚れた人間性を持っていたし、イエスも"その女から生まれたから"、その人間性を伝授していました(ガラ.4:4)。マリヤを母として、彼女から生まれたと言うことは、彼が出生以前には形体的に存在していなかったことを立証するのです。Diaglott訳本はガラ.4:4を次のように、翻訳しています、ー"Having been produced from a woman"。 福音書には度々マリヤの人間性が指摘されています。キリストは彼女の霊的考えがないのを少なくとも三回以上叱責しました(ルカ.2:49; ヨハ.2:4)。彼女は彼が話すのを理解することが出来ないでした(ルカ.2:50)。これは彼女の子が神の子であったけれども、彼女はやはり普通の女のように人間性をもっていたことを確証しています。従ってイエスは彼女の子であり、その肉の人間性を持っていたけれども、彼女よりはもっと霊的でした。ヨセフはイエスが生まれた後マリヤと正常的夫婦関係を持ち、多くの子を生産し、彼女も正常的主婦の生活をしたのでした(マタ.1:25)。それで彼らが正常的夫婦関係がなかったと言う証拠がないのです。 従ってマタ.12:46、47のキリストの"母と彼の兄弟"に関した話は、マリヤがイエス以外の子らを持っていたのを暗示しています。イエスは"彼女の長子"でした。マリヤが処女に留まり、天に上げられたと言われたカトリック教の教えは聖書にはない言葉です。死ぬべき人間性を持っていたマリヤは年をとり、死んでしまったでしょう。これとは別に、ヨハ.3:13に、"誰も天に上った者はない"と言われました。キリストが人間性を持っていた事実は(ヘブ.2:14ー18; ロマ.8:3)彼の母もやはりそれを持っていたことを意味するのです。 |