聖書 基本 知識 学習 7:イエスの起源 イエスに関する旧約の予言 | イエスの出生 | 神の計画にあるキリスト | "初めに言葉があった" | 間違った解釈(歴史的イエス, "天から来た者", イエスが地を創造した, アブラハムの前にいた者, メルギセデック)| 問題と解答 |
間違った解釈:22歴史的イエスある人たちが主張しているように、もしナザレのイエスがかって存在した証拠がないとすれば、キリスト教の存在自体を説明するのが難しくなるのです。それは過去の二千年間数千万の人が決して存在しなかった者を根拠として信じ、そしてその存在しなかった人を激烈に信仰したために、多くの人が酷い逼迫や死を賭して、その信仰を世界に広く述べ伝えたと言うことになるのです。クリスチャンとユダヤ人たちは大体モハメットの主張と彼の教えは拒否しますが、彼がこの世に生きたことはたやすく受け入れるのです。私たちは一般的に歴史的に有名な人物は彼らが存在した明白な証拠がなくとも彼らを良く受け入れるのです。私たちは度々広く世に知られている事件を分析して見ます。例えば、西紀1600年頃起こった関ヶ原の戦いはなぜ起こったか、その戦いの意義はなんであるか、などを正確に把握するためです。 ナザレのイエスの存在を強く否認する者たちの中には、彼のメシヤ権を受けることに対する論証に敢然とたち向かわないで、便利な言いわけでそれを避ける傾向がありました。これは初期イスラエル人たちがイエスと呼ばれる人が1世紀に存在したのを受け入れる時に現れる事実でした。次のナザレのイエスの存在に対する歴史的証拠は神学の作り話によって彼を去らせることが出来ないことになっているのを示しています。この学習には助けになる多くの情報が、Gary Habermasの歴史書、'Ancient Evidence For The Life Of Jesus'収集されています。 1) Tacitusはローマの歴史家です。1世紀に対する彼の二つの作品(AnnalsとHistories)皆がイエスとキリスト教に関して話しています。彼は"Annals(約A.D.115年)"を著作しました。 "Tiberius皇帝の統治時代、彼の総督の中の一人であるPontius Pilateがユダヤを治める時、一般からクリスチャンと呼ばれる一団の憎まれた人たちが甚だしい迫害を受けた。彼ら一団の名称は彼らの創始者キリストによるのであった"。 Tiberius皇帝がA.D.14年-37年まで統治する間、キリストが処刑されたと記録しています。Tacitusもまたこのグループの信仰がユダヤばかりでなく、ローマに広がったと描写し、彼は続けてクリスチャンたちが多くの人に憎まれ、彼らの多くがローマで処刑されたと書いています。これは皆イエスに関した新約聖書の記録と一致しています。弟子たちと使徒たちが始めに彼らの教えをユダヤに伝え、それからローマ市とローマ帝国の全領土に伝えましたが、多くの妨害がありました。 2) ローマの他の歴史家、SuctoniusはClaudius皇帝(A.D.41年-54年)時代に書き始めました。"ローマにいたユダヤ人たちがChrestusの煽動によって続けて騒擾を起こすので、Claudius皇帝がローマ市から彼らを追放した"。"Chrestus"は"Christ"の他のつづり方でありました。そのゆえ、使.18:2にはアクラとプリスキラと呼ばれるユダヤ人のカップルがユダヤ人たちを迫害したためにローマを離れなければなかったのが書かれています。 Suctoniusは後ほどネロの時のクリスチャンの迫害に対して説明しています。"そのローマの大火事事件の後... 一つの新しくそして有害な信仰を告白している宗教の信者たち、クリスチャンたちに刑罰が科された"。これは1世紀にクリスチャンと呼ばれる宗教団体が存在したのと、その世紀に"キリスト"と呼ばれる人が存在していたのを提示しているのです。 3) 聖書学者F.F.Bruceは彼の著書、"Christian Origins"PP.29,30で、A.D.52年頃、Thallusが書いた東地中海の歴史に注目すべきことがあると話しています。Bruceは他の著書、"新約聖書の文書"P.113で、Julius Africanusと名をつける学者がThallusの著書を引用し、イエスが十字架につかれた時暗くなったのは日蝕のためであったと彼の描写をあざけています。これはイエスが十字架刑が彼がA.D.52年に書いたの彼の歴史書の前に起こったのを提示しています。 4) ローマ政府行政官Plinyは末のごろいたクリスチャンと呼ばれる一団のとても活動的な人たちの存在を1世紀の詳細に話しています。使徒たちが記念礼拝を上げる状態に対して話しているのがあります。"彼らは決めた日の日没前に集まる習慣があって、彼らはキリストに対する賛美歌の句節を交替して唄った"(Plinyの書信、W.Melmoth Vol.2.X:96)。ローマの皇帝TrajanとHadrianはクリスチャンたちを取り扱うのが問題であると話しています。これに関してまた"Plinyの書信"Vol.2,X:97とEusebiusの教会史、IV:IXに書かれています。1世紀以来このグループの存在と逼迫を受ける中でも彼の驚く不屈の精神は、彼らが1世紀に実際存在していた歴史的人物に従っていたのを提示するのです。 5) ユダヤ人の聖典、タルムード、サンヘドリン43aはイエスの死に関して話しています。タルムードのこの部分はその本の編纂初期(A.D.70年ー200年)からそれを認定しています。 "過ぎ越し節の夕方イエスは十字架につかれました。その処刑の前40日間彼に関する一つの伝聞が回されました。'彼が魔術を使ってイスラエルを誘惑して堕落させているから彼を石で打たなければならないと言うことでした。また誰でも彼に賛成する者は、彼の代りに出て来るように'。しかし誰も彼の代りに出て来る者がないから、彼は過ぎ越しの日の夕方十字架につかれました"。 "十字架につける"には当時の処刑法でした。それで彼は聖書に書かれている通り十字架につかれました(ガラ.3:13; ルカ.23:39)。ユダヤ人たちイエスを石で打って(モーセの律法にしたがって)殺そうとしたが、実際彼は十字架につかれました。これに対しては、ユダヤ人たちはイエスを処刑するにローマの法を使用したのが新約聖書に良く描写しています。 サンヘドリン43aにはまたイエスの五人の弟子が裁かれ、処刑されたと描写しています。これはユダヤ人の伝統は歴史的イエスが存在した事を信じているのを示すのです。サンヘドリン106bにはイエスが死んだ時が33才であったと話しています。これは新約聖書の記録と全く同じです。Maierの著書、"First Easter"PP.117、118は、5世紀のユダヤの文献である"Toledoth Jesu"引用していますが、それには弟子たちがイエスが死んだ後彼の死体を盗んで行こうとしたが、ユダと名つけた園の番人が彼らの計画を聞きイエスの死体を他の所に移し、後にそれをユダヤ人たちに渡したと主張しています。Justin MartyrがA.D.150年ごろ書いた文書には、ユダヤ人たちが特別にメッセンジャーを遣わしてイエスの死体が盗まれたと主張するようにしたと記録しています(Dialogue with Trypho 108)。またTertullianもA.D.200年書いた文書にそれと同じ事を記録しています(On Spectacles、30)。 彼らの間にあるこの証拠の筋はA.D.の初期のユダヤ人たちが歴史的イエスの存在と彼の横死を信じていたのを示しています。 6) ギリシャの戯曲作家Lucianは2世紀に書いた彼の戯曲で"十字架につかれて死んだ人を今日も礼拝している"とクリスチャンをあざけているのがあります(Lucian、The Death of Peregrine、11-13、in The Word of Lucian vol.4)。 7) Josephusは西紀1世紀の最も有名な歴史家でした。彼が書いたA.D.90年-95年の著書"Antiquities"で、彼は"キリストと呼ばれた、イエスの兄弟ヤコブ"に関して話しています。彼はまたその本の他の部分ではイエスに関する新約の描写を確証を与えています。"その時イエスと言う賢者がいました。...彼は驚くべき目覚ましい行為をなした人であったために、...彼はキリストでありました。...彼は神の予言者たちが彼に関して予言した通り多くの驚くべきことを果し、...死んだ後三日めに死者から起き上がって彼らに現れました"。 この文書に対してある人たちはそれは一つの改竄であると主張しています。 1世紀に住んでいたナザレのイエスと呼ばれる人の存在を支持するにこの句節が使用される理由は次の考察によって与えられているのです。 Eusebiusは彼の著書、教会の歴史、I:XIで、Josephusのこの部分を引用しています。 尊敬を受けている学者たちがこの始めの部分が原文であると支持し、この部分がJosephusの他の作品と同じ文体で書かれていると示しています(Daniel Rops、"The Silence of Jesus'Contemporaries"、p.21)。J.N.D.Andersonの"Christianity: The Witness of History"P.20, F.F.Bruceの"The New Testament Documents"PP.108,109) この改竄に対する文書的証拠がないのです。 Schlomo Pines教授はJosephusのアラブ版の作品がほとんど原板であるのが確かであることが発見された主張しています。上記に引用された句節がそこで見出されるが、その抜き書きした文書にはイエスの復活とメシヤ権に関した確かな教理の声明はないのです。Josephusはユダヤ人でしたので、こんな理由があると思います。Pines教授は彼が見出したことに対する論文を始めに"The New York Times Feb.12.1972年"に記載されました。そこで彼はそのアラブ版からイエスに対するJosephusの論争点を引用しました。"その時イエスと呼ばれる賢者がいた。彼の行為は善良であり彼は道徳者と人たちに知られていた。多くのユダヤ人と他の国と人が彼の弟子になった。総督Pilateが彼を十字架につけるように宣告した。彼の弟子になった者ちが彼の弟子であることを放棄しなかった。彼らは彼が十字架につけられて死んだ三日の後によみがえり彼らに現れたと公表した。従って、彼はその予言者たちが詳しく不思議なことを話したそのメシヤであると思うようになった"。 この記録は新約聖書の記録と見事にに一致しています。 |