聖書 基本 知識
学習 2:神の霊
定義 | 神の霊感 | 聖霊の賜物 | その賜物の撤収 | 聖書の権威 | 間違った解釈(聖霊は果たして人格的存在であるか?, 擬人法の原則, カルビン主義, "聖霊の賜物を受けよ", "信じる者には、このような徴が伴う")| 問題と解答

間違った解釈6:カルビン主義

約300年前の頃、カルビンと言う人は人間には神の予定があるので、人間の自由意志の決定はないと教えました。従って人間が救われるか拒絶されるかは既に予定されたと言うことです。この観念が現代キリスト教の教理に現れています。

もし私たちがどうせ救われるとすれば、聖書を学びキリスト教を信ずる努力が必要でないのです。

人間の意志とは別に悪魔と言うものが罪を犯せ、そして問題を起こすと言うのです。この偽りの観念は学習6で討議することにします。

私たちが旅行する時、安全を保たすために願う祈りと、神の気かかりを願う祈りが必要ないのです。救いが空港の待ち合い室でフライトを待っているように、時間が来ればそのフライトは離陸してしまうのです。

福音教会の大分が聖霊の働きなしにはキリストを信じ、聖書を理解することが出来ないと言うのです。

このような人間の哲学を拒絶すべき論拠が聖書にはとても多くあります。

それは人間が神に順従せねばならない概念全体を無意味にしています。聖書は私たちが神の掟を守ることによって彼に喜びを与えることが出来ると継続的に話しています。もしも神が私たちを彼に強制的に順従させるならば、この掟の概念は意義がないのです。キリストは"彼に従順であるすべての人に対して、永遠の命を与える"(ヘブ.5:9)のです。

ヘブ.11章は私たちの生活に神の介入と究極的救いの付与は私たちの信仰と関係があると示しています。もし人間のすべてが予定されているとすれば、困難の時に神に救いを願っていた祈りに関する多くの聖書の実例は何の意味がないのです。同様にキリストにある私たちの信仰の結果である救いの考えも意味がないのです。

バプテスマは救いの前提条件です(マコ.16:16; ヨハ.3:3ー5)。カルビン主義はこれを否定するのです。しかし救いはその抽象的予定論によって得るのでなく、キリストの使役によって得られるになっています(テモ后.1:10)。私たちはバプテスマを受けるによって、私たち自身を彼に連合させるのを選ばねばならないのです。聖書はバプテスマによって、罪に従順なる生活から義に従順なる生活に変えるのと話しています(ロマ.6:15ー17)。

"あなたがた自身が、誰かの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であるのです"。この服従すると言う言葉は自由意志を示すのであって、条件のない予定とは全くで反対であります。"あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教理の本体に心から服従した"(ロマ.6:17)と話しています。

もし私たちの救いが究極的に予定しているとすれば、神は私たちにそれを話す必要がなく、また伝道も必要がないでしょう。しかし聖書は伝道することを命令し、その実例が記録されたことは、人が救いに至るのがその伝道を通してなることをと示しているのです。"この救いの言葉は私たちに送られたのである"(使.13:26)。

私たちは私たちの行為によって裁かれるのです(啓.22:12)。もし救いに関する自由意志の行動が重要でなければ、そのように話す必要がないでしょう。パウロはユダヤ人たちが神の言葉を退けたので、彼ら自身が永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったと話しました(使.13:46)。彼らは彼ら自身が裁いたのです。神はそれを予防しませんでした。もし神がある人の救いは予定し、他の人は予定してないとすれば、神がある人は罪人になし、ある人は義人に成すと言うことになります。アダムの罪のために、"すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ"(ロマ.5:12)と話しています。これは、神がアダムが罪を犯す前に彼を罪人になるようにしたためでなく、罪に対する刑罰として、人間が死ぬ理由であります(ロマ.6:23)。

コリ前.10章と他の多くの句節が、信者たちの警告として、過去に一度神と関係を持っていた者たちが堕落している実例を上げています。"恵みから落ちられる"(ガラ.5:4)可能性がある事実は、'一度救われば、永遠に救われる'と言うカルビン主義の救いの制度はいられないことを意味するのです。ただ真の教理を継続的に持っている者だけ救われることが出来るのです(テモ前.4:16)。

イエスは神の言葉を理解することは人間の自由意志によることであると明らかに教えています。"読者よ、悟れ"(マタ.24:15)。このように私たち自身が理解出来るのは何か強要によることではありません。これに匹敵する言葉、"耳のある者は聞きなさい"、あるいは理解せよとイエスは度々話しました。したがって耳のある者は聞きなさいということは神の言葉を読んでみなさいというのことです。神の霊はイエスの霊感によって話した彼の言葉は"霊である"(ヨハ.6:63)と言われた彼の言葉を通して良く現れました。神の霊は、人をその言葉に服従させるために働いていますから、彼の言葉とは別に働くことが出来ないのです。

福音で発見される命の水の言葉に応じて、"命の水が欲しい者は、値なしに飲むことが"(啓.22:17)出来るのです。人間の救いは神の予定にかかわりなく、人間の自由意志で決定されるのです。これと同様に、主の名にあづかるバプテスマを通して、"主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう"(使.2:21)と定められています。


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