ローマ.カトリック教は神の民の霊魂が死の後、天と地獄の中途にある'煉獄'と呼ばれる所に行くと教えています。それは人を清める所で、そこで霊魂が暫くの間困難を受けて天に行く救いを得るに相応するになると教えています。彼らの友たちや親戚の人が祈りを上げ、教会の聖燭や献金を捧げるによって、その霊魂が'煉獄'での困難の期間が短くなると言うのです。このような考えは次のことから完全に間違っているのです。
聖書はそのような所に関して何のも話していません。
私たちは聖書で'霊魂(Soul)'とは私たちの中にある何か不滅の要素でなく、人の体を話すのであると示しました。そしてその'地獄'は永遠に罰する所でなく、死体を葬る墓であると示しました。
義人たちの霊魂が天に行くと約束していません。救いはキリストが帰り来て裁きの時に下さるのであり、死後暫くの間'煉獄'に行くのではありません(マタ.25:31-34; 啓.22:12)。
すべての義人が、一人一人違う時に救いを受けるのでなく、同時に彼らの補償を受けるのです(ヘブ.11:39、40; テモ后.4:8)。
煉獄の教理が提示しているように死後も行動があるのでなく、死は完全に無意識の状態です。
私たちはキリストに預かるバプテスマを通して罪が取り除かれ、死後しばらくの間受ける困難を通してでなく、この世で生活する間彼の使役を信ずる堅固な信仰によって発展するのです。私たちは生活で"古いパンの種をきれいに取り除くように"(コリ前.5:7)、罪の仕事からきれいになることを(テモ后.2:21; ヘブ.9:14)告げられています。従って私たちを罪からきれいにする期間は今この世で生きる時であって、死後'煉獄'でするのではありません。今は"恵みの時、救いの日であります"(コリ后.6:2)。私たちが、煉獄で暫くの間留まるのでなく、バプテスマを受け神に服従し、霊的性格に発展するのが救いになるのです(ガラ.6:8)。
他の人たちが救われるように聖燭や献金をカトリック教会に捧げるのは私たちの救いを得るに何の効果もありません。"財宝を頼みとする者は、... 彼の兄弟をも贖い得なく、神に身代金を払うことは出来ない。...とこしえに払い終えることは出来ないのです"(詩.49:6ー9)。