'主の祈り'は神の国が来るように祈るのです。それによって神の要求が天に行われた通りに、この地でも行われるように祈るのです(マタ.6:10)。従って私たちはこの地に神の国が来るように祈るのです。数知れない多くの人たちが、この言葉の意味も知らず、神の国は既に天に建てられ、この地は滅ぼされると信じながら、毎日祈っているのは本当に人類の悲劇であります。
"柔和な人は、幸いである、彼らの霊魂が天に行くのでなく、彼らは地を受けるのであります"(マタ.5:5)。これは詩篇37章を引用して、義人に対する補償がこの地であることを力説しているのです。悪人がちょうどその地で彼らの短い人生を楽しみましたが、義人たちが永遠の生命に酬いられて、悪人たちが支配していたこの地を永遠に所有するのです(詩.37:34、35)。"柔和な者はこの地を継ぎ、... 主に祝福された者は地を継ぎ、... 正しい者は地を継ぎ、とこしえにその中に住むことが出来るのです"(詩.37:11、22、29)。とこしえに約束された土地、この地で生きることは天にて永遠に生きるのを意味することが出来ません。
"ダビテは死んで葬られ、... ダビテは天に上がっていないのです"(使 2:29、34)。その代わりに、ペテロは彼の望みがキリストの帰りに死者の中から復活するのであったと説明しています(使.2:22ー36)。
地は人類に対する神の作業場であります。"天はヤウェの天である。しかし地は人の子らに与えられた"(詩.115:16)。
啓.5:9、10は義人たちがその裁き座で主に受け入れられた時歓声を起こすのに関するヴィジョンと関係されています。"あなたは(キリスト)私たちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう"。この地に建てられた神の国を治めているこの絵は私たちが祝福の天で楽しむと言う漠然な考えを取り除いてしまうでしょう。
ダニエル書2章と7章の予言は一つの国の政治力が継続するのを要約しています。それはキリストが帰り来て、神の国を建て、結局この世が変わるのを現わしています。この国の支配は"全天下の国々に至り"、"全地に満ちます"(ダニ.7:27; 2:35と44節と比較)。この永遠な国が"いと高き者の聖徒たる民に与えられるのです"(ダニ.7:27)。従って彼らの補償は天下のこの地に建てられるこの神の国で生きる永遠の生命であります。