聖書 基本 知識 学習 1:神(God) 序 文 | 神の存在 | 神の人格 | 神の名と性格 | 天使たち | 間違った解釈("神は霊である", 神の名の使用, 神の現れ)| 問題と解答 |
間違った解釈1:"神は霊である"(ヨハ.4:24)神の霊に関しては学習2でもっと詳細に定義しています。神の霊は彼の力あるいは呼吸と話してその論題を要約出来るし、そして彼の本質の自身、彼の存在と性格がその霊の成し遂げる行動を通して人間に現れています。彼の霊は彼の人格を反映しているから、"神は霊である"と言われた句節は正確に翻訳すべきであります。 神は多くのものに描写されています。例えば、
このように神には彼の特徴を現わしています。聖書で"神は愛である"と読むので、'神の本性'を抽象的に'愛である'と定義するのは明らかに間違っているのです。私たちが誰は親切であると言いますが、しかしそれは彼が身体的存在がないと意味するのではありません。それは親切を現わしている彼の存在のマナーを話しているのです。 神の力である彼の霊は、聖書では、神が遣わし、あるいは指示して彼の意志と性格に一致することを成し遂げるものと認識せねばなりません。神はその霊も創造したと話しています(アモ.4:13注釈を見よ)。神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。 神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています
聖書には度々神が"彼の霊"と話してその霊は人格的神でないことをが充分立証しているのです。この神と彼の霊の差違点は父なる神をイエスと聖霊と同等視する'三位一体説'を信じている人たちにはもう一つの難しい問題です。もしこれが事実であり、神が人格的でないものと仮定するなら、イエスは実際の存在でなかった者であり、また今もいない者となるのです。 神が人格的存在でないなら、私たちが祈りをあげる時も、'祈りがただ私たちの心に存在する意識と神に関する考えとの対話であると言う意味になるので、重大な問題が起ります。私たち継続的に天に身体的に居られる神に祈っている事を気付かせるべきです(伝.5:2; マタ.6:9; 5:16; 王上.8:30)。そしてイエスはいま神の右におられ、私たちの祈りを神にあげています(ペテ前.3:21; ヘブ.9:24)。もし神が人格的でないなら、このような句節はなんの意味もないのです。しかし一度神が実際私たちを愛している父であると認識することができれば、私たちが信頼している他の人に話すと、彼は私たちの意志に反応し応答するように、私たちの祈りは私たちが触知できる実際的神にあげるのです。 |