聖書 基本 知識 学習 1:神(God) 序 文 | 神の存在 | 神の人格 | 神の名と性格 | 天使たち | 間違った解釈("神は霊である", 神の名の使用, 神の現れ)| 問題と解答 |
1.2 神の人格神が実際形体を持って、触知出来る人として現れたことが威厳と栄光のある聖書の主題であります。またそれはイエスが神のみ子であると言うキリスト教の基本教義でもあります。もし神が形体を持つ存在でないとすれば、"彼の本質の姿"であったみ子は持つことが出来なかったでしょう。多くの人たちの観念になっているように、もし神がただ宇宙の空間のどこかにある一すじの鬼火のような存在であるとすれば、人間が神と人格的関係を持つことは出来ないでしょう。宗教の大部分が神に関してそのように触知出来ない非実在的存在であると言う観念が人類に悲劇をもたらしているのです。 神は私たちより限りなく偉大であるので、彼を明らかに見られると言われた彼の約束を人たちが信じられないのを充分理解出来るのです。イスラエルの神は実際形体を持っている方であると明らかに教えているにもかかわらず、多くの人が彼の"姿"を見られると言う信仰を欠いていました(ヨハ.5:37)。本当に神を分かり、彼を信ずる信仰は彼の言葉から来るのです。
もし私たちが本当に神を信じるなら、このような素晴らしい望みが私たちの生活に大きな影響を与えるでしょう。
この世に生きている私たちは天の父に関する認識が不完全でありますが、しかしこの世のもつれた暗闇を通り抜けて、彼に会われることが待望出来るのです。私たちが仰ぎ見られる彼は私たちが考えているより最も偉大な方でしょう。この世の深い苦しみの沼でも、ヨブは末の時神と経験される人格的関係によって喜びました。 "この皮膚が損なわれようとも、この身を持って私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る"(ヨブ.19:26、27)。 使徒パウロもまた苦しみと騒ぎの世から声高く叫びました。"私たちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るであろう"(コリ前.13:12)。 旧約聖書の証拠 新約聖書の約束はみな形体的、人格的神を立証する旧約聖書の重要な背景の上に立てられたのです。もしキリスト教が聖書全般に基づいていることを私たちが本当に理解しているとすれば、神の本性を認識するのがその基本であると強調しないはずがないのです。旧約聖書は首尾一貫神の人格に関して話してます。旧約聖書と新約聖書両者が話している神との人格的関係が真のキリスト教信者のユーニクな望みです。次の句節は神が形体的、人格的であることを強く支持している論処です。 "神はまた言われた。私たちの形に、私たちにかたどって人を造ろう"(創.1:26)。このように人間は天使たちを通して、神の形に、形どつて造られたのです。ヤコブは"神に形どって造られた人間をのろっている"(ヤコ.3:9)と話しています。これらの言葉は人間の心に対して使用しているのでないのです。なぜなら私たちの心は生まれつき全く神から遠く離れており、多くの点において彼の義とは根本的に対立しているからです。"私の思いはあなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると、主は言われた。天が地を高く越えているように、私の道はあなたたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを高く越えている"(イザ.55:8,9)。従って私たちが神から受けたその形とかたどりは一つの形体的ものに違いないのです。天使たちが地に現れる時はみな人間の形をしているのを描写しています。アブラハムは天使たちの訪問を気付かないで普通の人たちと思って彼らをもてなしました。人が神の形とおりに創造されたことは、私たちの形がその実際的対象である神をそれとなく示しているのを意味しているのです。このように私たちに反映している神は私たちが心に抱かれないあいまいなある者ではないのです。 天使たちは神の映像です。神はモーセに対してこのように話しました。"彼とは、私は口ずから語り、明らかに言って、謎を使わない。彼はまたヤウェの姿を仰ぎ見るであろう"(民.12:8)。これは、モーセがその律法を受ける時、ヤウェの名を持つ天使が話したのです(出.23:20、21)。もし天使がヤウェに類似していたとすればヤウェは天使と同じ姿、すなわち肉と血によってなっている人間よりは限りなく高い方ですが、神はやはり人間の姿を持っているのです。"人がその友と語るように、ヤウェはモーセと顔を合せて語られた"(出.33:11;申.34:10)。ヤウェは彼の天使に現われました。その天使の顔と口はヤウェのものを現わしたのでした。 "ヤウェは私たちの造られたさまを知る"(詩.103:14)。彼は私たちが関係出来る人格的存在の父であることを分かるように欲しています。これは神の腕、手、目等、彼の実体の肢体を引用して説明しています。人々が一般的に神の人格的存在を否定しているように、もし神が天のどこかにある鬼火のようなエッセンスであるとすれば、このすべての引用句が教えいる目的は誤解をまねくようになります。 神の居所に関する描写は明らかに"神"が私的な居住所があるのを指示しています。"神は天にいます"(伝.5:2)。"ヤウェはその聖なる高き所から見おろし、天から地を見られた"(詩.102:20)。"あなたは、あなたのすみかである天で聞いて赦し"(王上.8:30)。これよりなおさら神が天の"御座"に座しておられると書いているのです(代下.9:8; 詩.11:4; イザ.6:1; 66:1)。このような言葉は天の領域のどこかに存在している不確定的な実体に対して使用することが出来ないでしょう。神は彼が地に現れる時天から"降りる"と話しています。これは神の天の居所を示唆しているのです。神の人格的、体形的本性の認識がなければ、"彼の現れ"は到底理解出来ないのです。 イザヤ書45章には神が彼の民のことに人格的に介入しているのが多く話されています。"私はヤウェである。私のほかに神はない、一人もない。...私は光を造り、また暗き創造し、繁栄を造り、また災いを創造する。私はヤウェである、すべてこれらの事をなす者である。...おのれを造った者と争う者は災いだ。...私は手を持って天を広げた。...地の果てのすべての人々よ、私を仰いで、救いを得よ"。 神は私たちに赦して下さる神として現われ、人間に言葉で話しています。さらに赦しと言葉は人格者でなければ起こらないことであり、それらは精神的行為です。またダビデは神の心に適う者であると(サム上.13:14)言われたので、神は心があるのを示し、人間は生まれつき神の心に適わない者であるけれども、ある程度彼の心を摸写することが出来る存在であります。"神は地上に人を造ったのを悔いて、心を痛めた"(創.6:6)と言われたように、神は大氣に渡り歩く幽霊のような者でなく、感情を現わし、意識することが出来る存在です。これはこの世の親たちが彼らの子がなしたことによって、喜び、また不快になるように、神も実際私たちによって喜び、また不快になる認識を持つ方です。 もし神が人格的存在でなければ 神が実際人格的存在でなく、幽霊的な者であると考えているのは神を正しく認識していないのです。神は全く正義でありますが、もし彼が形体的存在でないとすれば、人間たちに現れた彼の正義は認識することが出来ないのです。背教的キリスト教界とユダヤ人たちは神が私たちを彼の精神的形象に造って、彼が受け入れられる者とするために彼の正義が一つのあいまいな聖霊を通して私たちの生命体に入ると言う観念を持っています。それとは反対に、私たちが神と言われる人格的存在を一度認識すれば、彼の助けと彼の言葉の影響によって、私たちが神の特徴を私たちの人格に反映する作業をするのです。 神の目的は彼自身が誉めただえられる多数の者に現れることです。記念すべき彼の名前、ヤウェ.エロヒム(Yahweh Elohim)は"He who shall be mighty ones"を意味しています。もし神が形体的存在でなければ、忠実なの者に与える補償はその神のように形体のない存在となるのでしょう。しかし神の国がこの地に設立されてその忠実な者たちに与える補償に対しては、もはや人間性の弱さに支配される体ではないですが、やはり私たちが触知出来る形体的存在であることを示しています。ヨブは彼の体が復活される時の"後の日"を切望していました(ヨブ.19:25ー27)。アブラハムは"地の塵の中に眠っている者のうちから、多くの者が目を覚まして、永遠の生命にいたる"者の内の一人(ダニ.12:2)であるに違いないから、彼はこの地で住むと約束されたカナンの土地を永遠に受け継げることが出来るのです(創.17:8)。"その聖徒たちは声高らかに喜び呼ばれるであろう。...その床の上で喜び歌わせよ。...もろもろの国を審判するであろう"(詩.132:16; 149:5、7)。ユダヤ人ちと異邦人たちが皆このような実際の重要な句節と、アブラハムに約束した身体的重要性を認識そこない、人間の真の形象が"不滅の霊魂"と言う間違った観念に導かれました。そのような観念は聖書の立証を全く欠いているのです。神だけが不死の栄えある存在であり、将来この地に設立される彼の国で、身体的形象で現れる、彼の本性を共有して住むように人たちを呼び出す彼の目的を完成しているのです。 忠実な者たちには神の本性を受け継ぐことが約束されています(ペテ后.1:4)。もし神が人格的で方でないならば、その忠実な者たちは非物質的幽霊となって生きるのを意味しているのです。これは聖書の教えでないのです。神の国で゛私たちに与えられる体ではイエスのような(ピリ.3:21)ものであって、彼は手や目や耳を持つ実際の体を持っています(ゼカ.13:6; イザ.11:3)。従って神が人格的存在である言う教理はその国の福音に関係づけられているのです。 私たちは不完全な形象であるから、彼の精神的形象に発展して神の王国で完全に彼の体形的形象にならなければならないですけれども、私たちが神の実体的形象であること、神が人格的存在であることが認識されるまで、彼に対する自覚した礼拝、また宗教、或は人格的関係は出来ないのが明らかです。神は愛情ある父として、また彼は肉の父親のように私たちを訓練している(申.8:5)と話されている句節からもっと彼に関する知識と慰安を得ることが出来るのです。私たちはキリストの受難に関する文脈で"彼が悩みの内にヤウェに叫ばわり、彼の叫びがその耳に達したけれども"(詩.18:6)、ヤウェは"彼が打ち砕かれるのを望まれた"(イザ.53:10)と書いているのを読みます。ダビデの子孫の一人が神の子になるとダビデにしたその約束が実行されるには彼の奇蹟的出生が必要でした。もし神が人格的存在でなければ、彼はそのような子を得られなかったでしょう。 神に関する正しい認識は聖書の多くの教理が理解出来るキーであります。しかし一つの偽りがもう一つの偽りに導くように、神に関する間違った概念は聖書が提議する真理の体系をあいまいなものにしました。もしあなたがこのセクションを少しでも理解するなら、多くの疑問が起こるでしょう。'あなたは本当にヤウェの神を分かっていますか?'彼に対して話している聖書の教えをさらに深く調査して見ましょう。 |