聖書 基本 知識
学習 2:神の霊
定義 | 神の霊感 | 聖霊の賜物 | その賜物の撤収 | 聖書の権威 | 間違った解釈(聖霊は果たして人格的存在であるか?, 擬人法の原則, カルビン主義, "聖霊の賜物を受けよ", "信じる者には、このような徴が伴う")| 問題と解答

間違った解釈7:"聖霊の賜物を受けよ"

ペテロはそのペンテコストの日に集まった大群集に、悔い改め、主の御名によってバプテスマを受けて、聖霊の賜物を受けなさいと言う訴えで彼の説教を終わりました。これはその文脈上、使徒たちがその群集に話している異言等、その賜物が神の霊の賜物であることを話しているのです。そのように説明しながら、彼らは奇跡的賜物を与えると言ったヨエルの予言が成就されたと告げています(使.2:16ー20)。従ってそれはペテロが彼の話しを聞いているユダヤ人の群集に霊の奇跡的賜物を約束しているのと考えなければなりません。その群集は異邦人でなく、ユダヤ人で構成されていました(使.2:5)。その賜物を与えると言うヨエルの予言は主にユダヤ人に関したことでした。このようにペテロは彼らに強調しました。"この約束は、...あなたがたとあなたがたの子らである"(使.2:39)と、ことによるとヨエルの予言はそのユダヤ人たちと彼らの子らに霊を与えることででした(使.2:17、ヨエ.2:28ー32比較)。この奇跡的賜物の約束は、当時ペテロの話を聞いている人たちと、彼らの子ら、ーただその二つの世代に限るのでした。

私たちは1世紀の末(ペテロが演説した70年後)その賜物が撤収したのを示しました。これはまた歴史の記録が確認しています。その二つの世代の間その霊の賜物を異邦人が得ていました。"遠くにいるすべての人にも"(使.2:39)。エペ.2:14ー17に"遠くにいる者たち"と記録されたのを注目しなさい。

しかし、使.2章に起こったことはヨエルの予言のただ一部の成就であると信ずべき相当な理由があります。その主な成就はイスラエルが敵軍に侵攻されて破壊される時、そしてイスラエルが悔い改め神と親しい交わりで住む時起こるでしょう(ヨエ.2:20)。"その後、私はすべての人にわが霊を注ぐ"(ヨエ.2:28)。その条件が成就するまで、使.2章に描写された、ペンテコストの日見られた極少しの部分的成就以外にヨエルの予言は成就したことがないのです。

そのバプテスマを受けた後霊の賜物を受けると言った約束は、今も効果があります。霊は一つですが、いろいろな方法で現れることが出来るのです(コリ前.12:4ー7; エペ.4:4)。1世紀にはその霊は奇跡的賜物を通して現れましたが、今はそれらが撤収して、"その霊の賜物の約束は"他の方法で現れました。"聖霊の賜物"は'聖霊によって与えられた賜物'を意味することで、また聖霊が話している神の霊感の言葉が約束した贖罪と救いの賜物があります。この"言葉"を使用した多くの実例があります。"神に関する知識"(コロ.1:10)は神が持っている知識、あるいは神に対する知識を意味します。"神の愛"と"キリストの愛"(ヨハ1.4:9、3:17; コリ后.5:14)は神とイエスが私たちに持っている愛、あるいは私たちが彼らに持っている愛を意味することが出来るのです。"神の言葉"は神に対する言葉、あるいは神から来た言葉を意味することが出来るのです。従って聖霊の賜物は聖霊が可能なこととそれが話すこと、すなわち聖霊の力が構成する賜物を意味する事が出来るのです。

霊の賜物:贖罪

ロマ.5:16とロマ.6:23には、使.2:38にある霊の"賜物"と比較出来る"その賜物"が救いと描写しています。実に使.2:39は救いに関するヨエ.2:32を引用したのであって、これはその霊の賜物でありました。"遠くにいる者たち"に約束した賜物であると言うペテロの話はイザ.57:19をほのめかしているのです。"遠くにいる者たちに平和(贖罪による神との和解)があれ、平和があれ"。エペ.2:8もまたその賜物を救いとして描写しながら、"一つの霊(この賜物)に結ばれて、御父に近づくことができる"(エペ.2:18)と話しています。これはなおエペ.2:13ー17がまたイザ.57:19をほのめかしている事実を確認させるのです。"しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト.イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストは私たちの平和であります。... キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、... 平和の福音を告げ知らせました"。イザ.30:1には神の霊の賜物によるのでなく彼ら自身の方法で救いを求めているユダヤ人たちを呪詛しています。"わが霊によってではない。罪に罪を加えるためである"。イザ.44:3にはまた同様な言葉でイスラエルの末の日の贖罪を描写しています。"私は、固い地(霊的に不妊の地)に水を注ぎ、干からびた地に流れを注ぎ、わが霊をあなたの子らに注ぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである"。アブラハムの子孫の祝福はキリストを通して与えられる彼らの贖罪です(使.3:25、26)。それはここでユダヤに注ぐその霊に匹敵するのです。これは明らかにヨエ.2章と使.2章の言葉です。ガラ.3:4にはこれを変えて多くの言葉で現わしています。"それは、アブラハムの受けた祝福が(贖罪)、イエス.キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、私たちが信仰によって受けるためである"。コリ前.6:11には"神の霊によって"私たちの罪が洗われ、清められたと話しています。ローマ書には霊の賜物(恵み)と贖罪に導く容赦が関連しているのを示しながら、"恵み...贖罪...霊"を受けるのが(1:5; 5:11; 8:15)平行しています。新約聖書は特別にその読者層が主にユダヤ人であったこととその書信らが持つ影響の観点から考えて見ると、旧約聖書の言葉と概念の上に建てられたと言うのは誇張した表現ではないのです。モーセの五経 時代とヨシュアの時代神は重ねて彼の民に地を与えると約束しました。"あなたの神、主が与えて獲させられる地"と言う句節が通常使用されています。しかし新しい契約の下ではその地に対応するのが救いです。従って今はそれが予期される神の賜物、罪の容赦と連合している贖罪です。

ガラ.3:2、5と3:8-11を比較して見れば、霊を受けるのが救いと贖罪のアブラハムの祝福を受けるのに匹敵するのを見出します。"約束された霊"(ガラ.3:14)はその文脈上アブラハムにして下さった約束を話しているのです。

ペテロはユダヤ人たちに彼らがその賜物を受ける前に悔い改めることを要求しました。これはまた個人の祈りでありました。霊の賜物は祈りがかなえられたのを描写する一つの方法と信じているようです。祈りで"よいものを下さる"(マタ.7:11)ことは聖霊の賜物を下さることと(ルカ.11:13)同じことです。ピリ.1:19の"あなたがたの祈り"が"イエス.キリストの霊の助け"に匹敵しています。それと同じく、ヨハ1.3:24は私たちがその掟に服従の結果として霊が与えられると話しています。またその22節にはその掟に服従は私たちの祈りがかなえられると話しています。このように私たちの祈りが聞き入れて下さることを確信すること(ヨハ1.5:14)と霊を持つことが(ヨハ1.3:21、24; 4:13)同様な表現であります。

"恵み"と度々翻訳されたギリシャ語'charis'は霊の賜物に関連して度々使用されています。

"確かに、主イエス.キリストの恵み(賜物)によって、私たちは救われるのだと信じる"(使.15:11)。またその"恵み"と言う言葉は度々かなえられた祈りと連合しています(出.33:12; 民.32:5; 詩.84:11; コリ后.12:9; ヘブ.4:16;ヤコ.4:6)。ゼカ.12:10には末の日ユダヤ人たちに"恵みと祈りの霊"の注ぎについて話しています。これは私たちが示唆したこと、祈りが贖罪の霊の賜物をもたらし、そしてその祈りのかなえの霊の与えは1世記のユダヤ人たちの悔い改めで例証されたことと、また末の日にあることを要約したのです。同じ文脈でパウロは悔い改めと贖罪に対する"神の賜物と召し"(ロマ.11:29)に関して話しています。

助け主

ヨハ.14−16章にあるその助け主の約束も同じく取り扱うべきです。これは主に弟子たちに与えられた奇跡的力に関して話しているのであって、まず彼らに約束していますが、私たちにもその奇跡的なものでなく、他のもので適用出来きるのです。その賜物らは"私(イエス)が話したことをことごとくー弟子たちに思い起こさせて下さる"(ヨハ.14:26)ことで、それはだぶん福音書を書くことが出来るようにしたと思います。その"思い起こさせる"と言う言葉それ自体が弟子たちに約束した助け主を奇跡的要素だけに制限しています。彼らはイエスが使役する間彼と一緒に生きた者たちでした。彼らはその助け主の助けでイエスが話した言葉を思い起こさせることが出来たのでした。その約束の"助け主"はまた完成した聖書の力にも適用されるのです。したがって私たちはこれと他の霊の約束が1世紀には奇跡的形で成就されたと結論出来すが、しかし今は聖書に書かれている神の言葉を通して霊が現れたのを適用しています。

勿論過去にも神の霊が言葉によって啓示されたのが事実ですが、しかしそれは今私たちが持っている完全な言葉と比べてみると極めて部分的啓示でした(コリ前.13:9ー13)。新約聖書の完成でその賜物が撤収した後には神から来た他のどんな啓示も書かれていないのです。モルモン聖典とか他の類似した著作品などを神の啓示であると主張するのは完成されたその聖書が神の完全な啓示でないと主張することになります。今日はその霊の賜物の撤収が聖書の完全性を立証しています。もし私たちが聖書にある神の啓示を完全に使用しようとすれば、旧新約聖書すべての部分を使用すべきです。その言葉に現れた神の完全を全部使用するによって私たちは神の人になる過程に出発するのです。


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