聖書 基本 知識
学習 2:神の霊
定義 | 神の霊感 | 聖霊の賜物 | その賜物の撤収 | 聖書の権威 | 間違った解釈(聖霊は果たして人格的存在であるか?, 擬人法の原則, カルビン主義, "聖霊の賜物を受けよ", "信じる者には、このような徴が伴う")| 問題と解答

2.3 聖霊の賜物

神が人たちを取り扱ういろいろな時に、彼の力である"聖霊"を人たちに遣わして使用しました。しかし、これは絶対"白紙の切手"を与えて気ままに使うようにしたのでなく、それらは必ずすべき事を成したのでした。聖霊を使用するにはいつも特別の目的がありました。それが完成した時、その聖霊の賜物は撤収してしまいました。私たちは神の霊が神の心ににある目的に従って行動するのを記憶していなければなりません。彼は彼の長期的目的を成就するために時々短期的には私たちの生活で受難を受けるようにしています(学習6.1を見よ)。それで彼の聖霊は必ず人の受難を軽くさせるように使用するのではないのです。そのような救助が、神の意志を私たちに現わして彼の高い目的を成就するのです。

これは今日聖霊に対する通俗のクリスチャンの態度とはとても対照的です。一般的クリスチャンは聖霊が疾病の治癒など、肉体的恩典を与えると思うので、それが価値あるものとされています。これはなぜウガンダのような内戦が激しい国に疾病の治癒的聖霊の賜物を受けたと主張する人たちが盛行しているかその理由を説明しているのです。歴史的にそのような聖霊の賜物を受けたと言う主張は人間の窮乏がきわめて激しい時代に起こっています。今日霊の賜物を所有していると言う主張もそのようなものです。もしある人が現在の人間の窮乏を克服すべきなにかの経験を期待するなら、その要求にびったりであるものを発見した後主張すべきであります。

今日多くのクリスチャンがその奇蹟的霊の賜物を所有していると主張していますが、それらの目的はなんであるかと質問すれば、彼らの答えがあいまいなのが普通です。神はいつも彼の霊を特別な定まった目的を成し遂げるために与えました。これゆえに、その霊の賜物を本当に持っていた人たちはそれを何のために使用するかを分かっていました。従ってそれの部分的成就はないのでした。これは今日治癒の賜物を所有していると主張していいる人たちの治癒とは全く対照的です。

次の実例は皆霊の賜物を与えた特別な理由と目的を指摘しているのです。いかなる場合にも何の目的がなく霊の賜物を所有したことがなく、またその賜物の所有者が自分の考え通りにそれを使用したことがないのです。私たちは神の霊に関して話している限り、人たちがその使用を指示することは絶対出来なく、それがある一定の目的のために下されたから、それを所有する者は限時的に使用することを分からねばなりません。

イスラエルの歴史の初期に、彼らは祭壇とその他の聖物などを保つ事が出来る一つの"幕屋"を造れと神から命令を受けました。そこで神を礼拝するために必要なすべての器具製作に関する詳細な指示がありました。それを完成するために、一定の人たちに神は彼の霊を与えました。彼らは"アロンの祭服を作るなど、幕屋の器具を作るに必要な知恵に満たされていました"(出.28:3)。

モーセに与えていたその霊/力を彼から取ってイスラエルの長老たちに与えた記録があります(民:11:14-17)。それは彼らが民の不平を正しく判断するによってモーセの圧迫を少なくするためでした。またモーセの死ぬ前に、その霊の賜物は彼からヨシュアに移り、神の民を指導するようにしました(申.34:9)。

イスラエルの民が彼らの地に入った時から彼らの初めの王、サウルが擁立されるまで彼らは士師たちによって治まれました。この時期に彼らは度々彼らの敵に圧迫されました。士師記には神の霊が彼らの士師たちに遣わされて奇蹟的に彼らを敵から救った記録があります。オテニエル(士.3:10)、ギデオン(士.6:34)、エフタ(士.11:29)。これらがその霊の行動を例示したのです。

また他の士師、サムソンはライオンや(士.14:5、6)、30人の人を殺し(士.14:19)、そして彼を結びつけたひもを断ち切るために(士.15:14)霊が与えられていました。従ってそのような"聖霊"はサムソンがいつも持っていたのではないのです。

それは彼に特別な事を成し遂げるように与えられ、その後撤収してしまいました。

神がその民に対する特別なメッセージがあった時、霊に満たされていた者が神の言葉を彼らに話しました。そのメッセージが終わった時、神のために話していたその霊の賜物は撤収してしまい、その人の言葉はもはや神の言葉でなく、平常の通りになりました。次はその例の一つです。

"神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカリヤを臨んだので、彼は民に立ち上がって言った、「ヤウェはこう仰せられる、あなたがたがヤウェの戒めを犯して、災いを招くのはどうわけであるか」"(代下.24:20)。

他の実例を読んで見なさい。代下.15:1、2とルカ.4:18、19。

これらから神の霊の賜物は特別な目的に使用された事が明らかにし、下記の条件とは関係がないことを分かるのです。

救いの保証

個人の生活のために与える

なにか神秘的な力

個人がある熱狂的経験から得たもの

聖霊の賜物に対する多くのあいまいな考えを話して見ましょう。人たちが'聖霊を受けた'と主張し、多くの伝道会で伝道師が'イエスを受け入れたいと'思っている人たちの前で'霊の賜を受けた'と見せびらかします。しかし重要な問題は何の賜を受けているのかと言うことです。彼らはどの賜物を受けたのかを分からないのです。サムソンは獅子を殺す霊の賜を受けていました(14:5、6)。咆哮する獅子に会った時彼は受けているその霊が何をさせるかを確かに知っていました。彼はそれに対して何の疑いも持っていませんでした。これは今日聖霊を受けていると主張しながら、なにも特別な行動をせず、またどんな賜物を持っているかを分からない人たちとは全く対照的です。

そいう人たちはキリスト教と関連した劇的感情の経験であって、彼らがUターンして通常になれば、それは彼らのうちにあった一つの奇妙な感情であった事だけに残るでしょう。これに気づいて見ると、彼らは聖霊の賜物に関する聖書の句節に捕らえられていた結果、'私が経験しているのがそれに違いない'と断定する過ぎないことを、彼らの牧師は'正しくそれである'ハレルヤ!と気を煽てます。そして彼らは他の人に聖霊を受けたと説服する時に聖霊を受けた証拠してその経験を利用するのです。この下手な模倣は'改宗'以前に知っていなければならない聖書知識の不足から起因するのです。

人間の"心はよろずの物より偽るものであるから"(エレ.17:9)、私たちは聖書の原則の堅固な磐石の上に足を踏んでいねばなりません。これを正しく把握するにはいかに神の霊が働くかを研究するより他にはありません。私たちはみな神の力が私たちの生活に働く事を欲しています。しかしそれがいかに働くかは知っていないのです。あなたは本当に聖書に記録されている通りに働いている霊の賜物を所有していますか。もし私たちが本当に神を認識して、彼と関係を持ちたいとすれば、これらの事を正しく認識すべきです。

1世紀に霊の賜物を与えた理由

既に学んだ神の霊の賜物に対する基本的原則を記憶して、今からは初期教会が所有していた霊の賜物に関する新約聖書の記録を調べて見ましょう。

キリストの最後の命令は使徒たちに全世界に出て行って福音を伝えることでした(マコ.16:15、16)。彼らは、彼らのメッセージにキリストの死と復活をテーマとして、これを伝えました。しかしその時今私たちが知っている新約聖書が書かれていませんでした。彼らは市場の路地で、あるいはユダヤ人の会堂でこの人、ナザレのイエスに対して話しましたが、彼らのストリーは異様なことでありました。完全な人であったイスラエルの大工が十字架で死に、旧約聖書の予言の通りにその死から復活したので、彼のみ名によってバブテスマを受け彼の例にならえと言うのでした。

その時代、一つの集団がキリスト教を伝播していました。北イスラエルの一団の漁師たちが彼らの哲学でなく、神自身から来た教えを信じていると言うそのクリスチャンたちによって伝播するメッセージはこの世に立証すべきある方法が必要でした。

今日クリスチャンたちは彼らのメッセージが神から来たのを立証するためにイエスの使役や彼の教理の記録である新約聖書を差し出します。しかし新約聖書が記録される前の時代は、その伝播者たちが話している真理を強調するために聖霊の使用を承認していました。これがこの世でその賜物を使用する特別な理由でした。記録された新約聖書がないので信者の新集団を信仰で成長させるに難しく、また彼らの間に起こるいろいろな実際的問題を解決することが出来なかったでしょう。彼らをキリストにある信仰で成長させる指導的手段がなかったのでした。それで彼らのメッセージとイエスの教えが書かれた新約聖書が頒布されるまで、聖霊の賜物を与えて初期信者たちを指導させたのでした。

このように、いつも聖霊の賜物を与えていた理由はとても明白にしています。

"彼(イエス)は高い所(天)に上った時、... 人々に(霊の)賜物を分け与えた。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストの体を建てさせるためである"(エペ.4:8,12)。

それで、パウロはローマの信者たちに手紙を書いて送りました。"私は、あなたがたに会う事を熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである"(ロマ.1:11)。

福音の伝播を確認させるために霊の賜物を使用した実例は次の句節で明らかに分かるのです。

"私たちの福音があなたがたに伝えられた時、力と聖霊(霊の奇蹟的わざ)と強い確信によったからである"(テサ前.1:5; コリ前.1:5、6と比較)。

パウロはこのように話しました。"私は、異邦人を従順にするために、キリストが私を用いて、言葉とわざ(霊の奇蹟的行動)、しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働けて下さった"(ロマ.15:18、19)。

福音の伝播者たちに関してこのように書かれたことを読みます。"さらに神も、しるしと不思議とさまざまなわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしされたのである"(ヘブ.2:4)。

奇蹟的わざでクプロ島の福音伝播運動を支持したので、"総督がこの出来事を見て、主の教えにすっかり驚き、そして信じた"(使.13:

12)。

このようにその奇蹟的わざは彼らが教えた者たちにその教理を尊重するようにさせました。イコニオムでも、"主は彼らの手によってしるしと奇跡とを行なわせ、その恵の言葉をあかしされました"(使.14:3)。

これはみな福音を伝播せよと言うた主の命令に従った使徒たちの従順の説明を要約しているのです。"弟子たちは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言葉に伴うしるしを持って、その確かな事をお示しになった"(マコ.16:20)。

特定な時代に与えた特別なこと

従ってその霊の賜物は特定な時代に特別な事を成し遂げるために与えたのです。これはその賜物を生涯所有すると言う永久的所有を主張している者たちが誤謬に落ちいているのを示しています。ペテロと共に、すべての使徒たちがイエスが昇天した後直に、"聖霊に満たされていました"(使.2:4)。それで彼らがキリスト教の福音を伝播するに他国の言葉を公に話すことが出来ました。当局が彼らの福音伝播を取り締まる時、"ペテロが聖霊に満たされて"(使.4:8)、当局を説伏出来る答弁を話すことが出来ました。彼らは牢獄から釈放され、"一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語る"(使.4:31)により、福音伝播を継続する事が出来ました。

聖書を注意深く読む者は"彼らがすでに霊に満たされていて"それらの事をなすことが出来たと話していないことを見つけるでしょう。一定の事をなさせるために彼らは霊に満たされましたが、神の計画の他の目的を成し遂げるためには再びその霊に満たされなければなりませんでした。それと同様に、パウロは彼がバプテスマを受ける時"聖霊に満たされていましたが"、しかし数年後、彼がある邪悪な者を盲目になるように呪うには再び"聖霊に満たされなければなりません"でした(使.13:9)。

その奇跡的賜物に関して、初期信者たちは"キリストから賜る賜物のはかりに従って"その賜物を所有していたとパウロは書いています(エペ.4:7)。その'はかり'と翻訳されたギリシャ語の意味は"程度、あるいは限定的分量"を示しています(Strongの聖書辞典)。ただイエスだけが自由に使うように限りなくそれを賜うていました(ヨハ.3:34)。

1世紀に信者が所有した霊の賜物に関して詳細に考察して見ましょう。

1世記の霊の賜物

予言

'予言'と言うギリシャ語は神から霊感を受けて神の言葉を話すのを意味しています。時にはその神の言葉に将来の事件を話しているのが含まれています(ペテ后.1:19ー21)。このように"予言者たち"は予言の賜物を受けた者たちであって、"その頃、予言者たちがエルサレムからアンテオケにくだって来た。そのなかの一人であるアガボと言う者が立って、世界中に大飢饉が起こるだろうと、御霊によって予言した所、果たしてそれがクラウデオ帝の時に起った。そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた"(使.11:27ー29)。このように予言した僅か数年後に起った特別な予言が、今日予言の賜物を受けたと言う者たちからは起こっていないのです。しかし初期信者たちにはこの賜物を受けていたので、彼らは予言の通り苦痛を受けている人たちに時間や財政を投資して苦境を克服するように助ける事が出来ました。今日いわゆる聖霊に満たされていると教会ではこのような事を見つけられないのです。

疾病の治癒

使徒たちがこの世に完全な国が成就すると言う神の福音を伝播していたことを考えてみれば、"その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は聞こえるようになる。その時、足の不自由な人は、鹿のように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う"(イザ.35:5、6)と言われた時を前もって味わせる奇跡的行為で彼らのメッセージを確認させたのはあまりにも当然なことでした。神の国で起こることに対しては学習5を読んで見なさい。神の国がこの世に設立される時は、この約束は完全に果されるので、その国が成就されいるか、あるいは成就されていないかあいまいなことはないのです。従ってその国に関するメッセージに対する神の奇跡的確認は論争の余地がない決定的形態ものでした。これゆえに、初期信者たちによってなされた多くの奇跡的治癒は一盤大衆の前で公になした事実でした。

私たちは毎朝宮の門のところで施しを乞うていた足のきかない男がペテロが治癒して歩くようにさせたその賜物による治癒の典型的標本を読むことが出来ます。そのことが使.3:2に述べられていますが、人たちが彼を毎日そこに置いていたので、彼は人たちに熟知されていました。ペテロが霊の賜物を使用して彼を治癒した時、彼の"足と、踝とが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美しながら、彼らと共に宮にはいって行った。民衆はみな、彼の歩き回り、また神を賛美するのを見て、これが宮の「美し門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ"(使.3:7ー11)。

その時ペテロは直ちに民衆にキリストの復活について話し初めました。その乞食が治癒された形で彼らに現れました、疑う事が出来なく、また反駁出来ない証拠によって、彼らがペテロの言葉を神の言葉であると見なして確信するようになりました。"祈りの時の"(使.3:1)宮の門は今日百貨店のバーゲンの朝のように人たちが込み合っていたでしょう。神がとても明白な奇跡で彼の言葉の伝播を確認させるに選んだ所は、このような所でした。これと同じ事を私たちは使.5:12で読むことが出来ます。"そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた"。いわゆる'ペンテコスタル派'とかそれに似ている諸派が主張している神癒というのは町の通り角よりは裏路地の彼らの会堂、また冷酷な一般大衆の前よりはその'奇跡'を期待している信者たちの集りで行なっています。

ところでこの問題に関して現在その霊を所有していると人たちと、そしてまたその霊の所有を立証すると言う人たちと討論して見た著者の経験を話して見ましょう。著者の見解では、彼らの治癒は疾病の完快でなく、大目に見て部分的治癒であると言う事が出来ます。その教派の正直な信者たちはそれが治癒してもその疾病は継続すると思っていました。多くの場合、私はペンテコスタル派の友たちに、"私はあなたが偉大なる力を所有していると言う事を信じることが出来ないのです。神はいつも彼の力を持っている者と、持っていない者とを明らかに示しています。それであなたが霊の賜物を所有している証拠を示すように問う必要がないのです。もしそれを示すとしても、それが聖書の教理と一致するとして、あなたの教理的立場に同意する事が出来ないでしょう"。彼らは私に霊の力を明らかに立証した事が一度もないのです。

私の態度とは対照的に、一世記の正統的ユダヤ人たちはクリスチャンが神の霊の賜物を所有していると言う可能性に心を閉じていました。彼らはこのように話していました。"この人が多くのしるしを行なっているのに、お互いは何をしているのか"(ヨハ.11:47)。また、"あの人たちをどうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない"(使.4:16)。それと同様に、使徒たちが他国の言葉で話しているのを聞いて、"彼らがあっけに取られた"(使.2:6)と話しています。今日あのペンテコスタル派の人たちのしゃべりにこれと同じことが起こりません。その奇跡を行うと言う現代のペンテコスタル派の事実をあきらかに明かして、奇跡を行うと言う彼らの不当性を否定出来なくさせるのは、とても重要なことであります。エルサレムで起ったただ一つの奇跡の記事がロンドンのトラファルガー広場、あるいはナイロビのナハル公園でもなされると提示するのは適当でないのです。それで今日所有していると言う神の奇跡的霊の賜物は全世界に渡る認定でなければなりません。ペンテコスタル派の人たちが主張している治癒の証拠は主に次のような疾病です。

胃の潰瘍が癒した; 祈りの会後に治癒が初め、進行している。

不具の四肢が成長していると言うこと。

度々前の通りに戻るけれども、聴力や視力がよくなったと言うこと。

うつ病が癒したと言うこと。

これらの実例にまたケンヤのナイロビにあったT.L.Osborn様の治癒伝道集会に救急車で患者を乗せて行った運伝手がそこに留まるべきか、あるいは帰るべきかジレンマに陥ったが、そこに留まりました。しかしその患者は結局治癒を得なく帰りました。

そのような集会には、"来て奇跡を期待せよ"と多くの挑戦的ポスターがひら揺れ、またその講壇は心理的効果を勘案して設置しています。新約聖書のどこにも奇跡が起こる前に大衆の心理的効果をねらって講堂になにか必要ものを設置しておいたヒントが全然ありません。一世紀に治癒された人たちの大部分が信者でなく、イエスがどういう人であるか全然分からなかった人もあります(ヨハ.5:13; 9:36)。

しかし今日の神癒主張者たちの集会は心理的衝撃をねらう祈りの反復、ドラムや感情を激発させる楽器を使って洗脳するによって治癒が起こるのです。そこには神に関するなんの理性的意識がないのです。著者はいろいろな場所で行なったそのような集会に参会した経験があります。その所に行く毎にいつもドラムの調子に合わせて拍手する騒々しい音の中で、気をつけ、その誘いにのらず聖書的意識を保ち、理性的心を保とうともがいたために頭が割れるような経験をしたのです。これは皆ペンテコスタル派の人たちの'奇跡の集会'の前奏曲であって、その神癒と言うのが神の霊の作業によるのでなく、感情と心理的結果であるのが立証されました。これとは対照的に、ペテロは本当に神の霊の賜物を使用して人たちが町の街路に置いていた人たちを治癒しました(使.5:15)。パウロが、クプロ島のローマ総督に(使.13:12、13)、またルステラ都市の多くの異教徒たちに(使14:8ー13)その奇跡的賜物を使用したのが立証されています。その霊の賜物の目的と本質が要求された時、それらのことは公になされ、そして、神の力が彼らの僕たちによって公に発揮されて、ほかに何の説明も必要がないものでした。

キリストの治癒奇跡の一つの効果も同様でした。"一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った"(マコ.2:12)。

他国の言葉

大部分が洗練されていなかった漁師たちであった使徒たちが、世界に出て行って福音を伝えよと言う偉大なる使命を受けました(マコ.16:15、16)。それに対する彼らの最初の態度は恐らく、"他国の言葉を話せないのに、いかに遂行出来るのか"と反応を起こしたでしょう。そればかりでなく、彼らは学校に通ったことがないから、外国語に関する概念もなかったのでした。彼らに関して、"彼らが無学な、ただの人たちである事を知って、不思議に思った"(使.4:13)と記録されています。パウロのように比較的に高い教育を受けた人さえ言語の障壁はとても手に負えないものでした。改宗者たちは、彼らお互いの教訓が必要な者たちであぁたので、お互いの言葉を分からないのに話すことはとても重要な問題だったでしょう。

これを克服するために、他国語を話しそれが理解できる霊の賜物を与えていました。聖書にある注釈には"Tongue"は確かに"言語"を意味するとしています。聖書の見解は、その"Tongue"が熱狂中に自分自身さえ知らず発する何の意味もない声であると主張しているペンテコスト派の意見とは全く反対であるのが明らかです。この混同は聖書の定義が"Tongue"は"他国語"であると示していることによって明らかになるのです。

キリストが昇天した後、ユダヤ人のペンテコスト祭りの時に、使徒たちは、"すると、一同は霊に満たされ、霊が語らせるままに、いろいろな他国の言葉を語り出しました。... この物音に大勢の人が集まって来て、彼らの生まれのの故郷の国語で、使徒たちが話しているのを聞いているのを、誰も彼も聞いてあっけに取られた。そして驚きを怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。それだのに、私たちがそれぞれ、生まれ故郷の国語でを彼らから聞かされることは、一体、どうしたことか。私たちの中には、パルテヤ人、メジア人、エラム人もおれば、... エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅に来ている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々は私たちの国語で神の大きな働きを述べるのを聞くことは、どうしたことか」。皆の者は驚き惑って、互いに言った"(使.2:4ー12)。これは彼らが今日その霊の賜物を受けたと主張しながら、呪いをでしゃべるような話を聞いて驚き怪しんだのでなく、他国の言葉を学んだ事がない人たちが他国語を上手に話すの聞いてそうなったのでした。呪いをでしゃべるような訳の分からない話を聞いて驚き説得されたのでなく、使.2章に書かれているように、他国の言葉で神の偉大な業を話しているのに彼らは説得されていました。もし彼らが訳も分からない事をしゃべっていたなら、皆立ち去ってしまったでしょう。

使.2:4ー11にある"Tongue"は"言語"であるとした確かに定義している以外に、新約聖書の多くの句節に"Tongue"が言語であるのを示しています。"あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほど大ぜいの群集が"(啓.7:9; 10:11; 11:9; 13:7; 17:15)と言われた句節は地球のすべて人たちを示し、その"言葉ーTongue"は諸国の言葉を示しています。とにかくギリシャ語の言葉は言語を示すのであって、訳の分からないことを話すその声は聖書では言語と認定していないのです(創.10:5; 申.28:49; ダニ.1:4を見よ)。

コリ前.14章、"異言を語る"賜物の使用に関する命令表はその21節でこの賜物をいかにユダヤ人たちが使用しているかに関してイザ.28:11を引用して話しました。"律法にこう書いてある。「私は異国の舌と異国の唇とで、この民に語るが、それでも、彼らは私に耳を傾けない、と主が仰せになる"。このイザ.28:11は主にユダヤ人たちが分からない言葉を話しているイスラエルの侵略者たちに対して話しているのです。"言葉"と"舌"と対比して話しているその言葉は外国語を示しているのです。コリ前.14章には"言葉"が外国語であるのを示している多くの句節があります。この章では、パウロが初期多くの教会で行なっているその賜物の濫用と、そして言葉と予言の賜物の特性を看破して彼らに霊感的批評を与えたのが書かれています。では、それに対して簡単に説明して見ましょう。その37節がキーになる点であります。

"もしある人が自分は予言者か霊の人であると思っているなら、私があなたがたに書いていることは、主の命令であると認めるべきである"。

誰でも霊の賜物を受けたと主張する者はその賜物の使用に関するこの命令が神の霊感によることであると受け入れなければならない。従って今日その命令に服従しない者は誰でも神の霊感の言葉を見下げているのであります。11節から17節まで;

"もしその言葉の意味が分からないなら、語っている人に取っては、私は異国人であり、語っている人も、私にとっては異国人である。

だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。

こようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことが出来るように祈りなさい"。

もし私が異言を持って祈るなら、私の霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。

すると、どうしたら良いのか。私は霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊で賛美を歌うと共に、知性でも歌おう。

そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうして「アーメン」と言えようか。あなたに何にを言っているのか、彼には通じない。

感謝するのは結構だが、それで、他の人の徳を高めることにはならない"。

従って、礼拝に集まっている人たちに分からない言葉で話すことは無意味なことです。呪いのような訳の分からない言葉で話すのは制裁しなければならないのです。意味の分からない言葉を聞いていかに「アーメン」と言われることが出来るでしょうか。祈りの終りに、「アーメン」と言う言葉は真にそうであるとその祈りに同意を現す言葉です。パウロが話していることは教会で兄弟や姉妹さまたちが異言で話すのは誰も意味を分からないから何の徳にもならないにと言っているのです。

私はかってBilly Grahamの集会が行われる会館の外で、聖書を基本としているキリスト教に帰れと言うパンフレットを配っていた時起ったことが忘れられません。そこに興奮していた一人の婦人が私に向かって私の教理が"悪魔の教えだ"と訳の分からない言葉で10分間ほどしゃべり続けました。私は彼女になにも話すことが出来ませんでした。パウロはそのようにしないように命令しているのです。

18節

"私は、あなたがたのうちの誰よりも多くの異言が語れることを、神に感謝する"。

パウロはキリストの教えを伝播するために多くの地域を旅行しなければならなかったから、誰よりも多くの異言を話さねばなりませんでした。

19節

"しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、他の人を教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい"。

これはとても明らかです。日本語で簡単にキリスト教に関する教理を話すのが他の国の言葉で数時間話し、あるいは呪いのような訳の分からない言葉で話すよりよいのです。

22節

"このように、異言は信者のためではなく、未信者のためのしるしであるが、予言は、未信者のためではなく、信者のためのしるしである"。

だから、異言を話すのは主に他の国に出て行って福音を伝える時に使用しました。しかし今日異言を話す賜物を受けたと主張する人たちは信者たちの中で、あるいは彼ら自身一人おる時も話しています。福音伝播のために奇跡的に外国語で話す人がいると言うことを聞いたことがありません。1990年の初め東ヨーロッパにキリストの福音を伝えるドアが開かれました。しかしいわゆる多くの福音伝道者たちは言語の障壁のために英語で書かれている伝道パンフレットを配りました。彼らが本当に奇跡的に異言を話すことが出来る賜物を受けていたとすれば、その異言の賜物を使用して伝えたでしょう。その霊の賜物を受けいれると主張している有名な伝道者Reinhardt Seiberは今もやはりKampalaとかUganda地方で伝道する時通訳者を雇っているのです。

23節

"全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っている所に、初信者か不信者かが入って来たら、彼はあなたがたが気が変になったと言うだろう"。

これは実際その時起ったことです。回教や異教ら同じく西部アフリカで異言の賜物を主張する人たちの奇怪な行動に対してからかいました。またそのペンテコスタルの集会に参加していたわきまえの出来る人たちも彼らが気を取られているとい言いました。

27節

"もし異言を語る者があれば、二人か、多くてい三人の者が順々に語り、そして一人がそれを解くべきである"。

礼拝する間は、ただ二人か、あるいは三人が異言で話すべきだと命令しています。聴衆に三つ以上の異言で話すのは許されないと言うのです。礼拝の時間において、二つ以上の異言を話すとすれば、その話者の話しを二つ以上に翻訳せねばならないから、その話し全体の統一性がそこなうのです。もし英国人たちが集まっているロンドンの真ん中の集会で、その異言の賜物を持っている人がいるとすれば、そこに集まっているフランス人やドイツ人たちの観光客様のためには彼らが話している言葉で話したでしょう。

伝道者:今晩は。

最初に異言を話す者:Bon soir(フランス語)。

その次に異言で話す者:Gutenabend(ドイツ語)。

しかし彼らが話す時は"慣わし通り"一人づつ次々に話すでしょう。彼らが同時に話すとすれば大混乱が起こるでしょう。しかし現在いわゆるその異言を話すと言う人たちは大体感情的気質が多いために、同時に多くの人たちが話すので、そのゆえに大混乱が起ります。私はその一人が異言を話し始めるや、彼の影響を受けて、多くの人たちが立ち上って騒ぐのを見ました。

異言の賜物は時々予言の賜物と連合して使用しているのがあります。それで、神からの霊感を受けたメッセージが話者を通して異言で話しています。このように二つの賜物を使用した実例は使.19:6で見られます。しかし、もし英国人たちとフランス人観光客者たちが集まっているロンドンの集会で、その講師がフランス語で話したとすれば、そこに集まっていた英国人たちは"何の徳も得ることが出来ないでしょう"。従って通訳の賜物を受けた者が来て、フランス語から英語に翻訳して集まっているすべての人が理解するようにしなければならないでしょう。それと同様に、もしフランス人から質問をしたら、その話者はフランス語を話す賜物を受けているけれどもその内容を分からないから、それに答えることが出来なかったでしょう。それで通訳の賜物は理解させるために現れたものでした。

通訳する人が居なかったら、その異言を話す者は黙っていなければならないでした。"もし異言を者があれば、..... もし解く者が居ない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべじである"(コリ前.14:27、28)。訳の分からない異言を語っている現代の異言主張者たちが通訳する者もないのにその訳の分からない異言を話しているのは神の命令に服従していないことを現わすのです。

32、33節

"かつ、予言者の霊は予言者のに服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように"。

それゆえに聖霊の賜物を所有するのは人間の正常な意識状態から脱したある経験ではないのです。その霊はその使用者がやむを得なく使用せられるのでなく、それを支配することが出来るのです。悪魔とか'悪霊'が救われない者たちが所有しているが、しかし聖霊は信者たちに満たすと主張することは大きな間違いです(学習6.3を見よ)。コリ前.14:32に話しているその霊の力は一定した目的のために使う使用者の支配に従っていました。それは人間の本性にある悪の力と対照的であるけれども目的のない善い力ではないのです。その外に使徒たちが受けたその聖霊の力はいつも彼らのうちにいたのでなく、一定した目的のために一定した時だけ彼らに使用されて撤収したことを、すでに示しました。

平和を愛し無秩序を憎んでいる(33節)神に適当な方法でその賜物を使用せよと訴えるその忠告は、今日の'ペンテコスタル'教会は全然聞きいれていないのです。

34節

"婦人たちは教会では黙っていなければならない。婦人たちは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである"。

その霊の賜物の使用に対して書いているこの文脈では、婦人たちが教会で礼拝の時その使用が禁止されているのを否定することが出来ません。だからそのように異言を話すのは全体的に無視してもよいのです。訳も知らない言葉をしゃべっているその現象は、聴衆の一人から他の人に移って行く感情の興奮であると説明出来るのです。婦人や子ともたちはそのような感情の興奮の影響を受けやすく、そのような声で叫ぶのが普通です。彼らはそれを異言を話すと主張しています。

現代の教会で'異言を話し'また'予言を話す'特出な婦人があると言うのはこの句節の明らかな命令とは少しも一致しないことです。使徒パウロは婦人を嫌う者であると言うばかげた論争は次の句節で静められるでしょう。"自分が予言者か霊の人であると思っているなら、私があなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである"(コリ前.14:37)。

従って神の霊感による聖書を信じる者は誰でもこのコリ前14章の命令はまじめに考えて見るべきことであると受け入れなければなりません。それを公にあざける者たちは神の霊感による聖書を信じない者であるか、あるいは霊の賜物を受けていない者であるのを彼自身が宣言するのであります。彼は霊の賜物を持っていないからコリ前14章の主の命令を否定していると言えます。この論争の論議が本当に反論を話しています。こういう人たちの教会に一員としてあなたは留まり、交わりを継続することが出来ますか。

本学習の脚注として話しますが、その訳の分からない言葉を聖書の異言だと主張している教派の人たちは他の教派の人たちより比較的にうつ病の比率が高いと言う科学的立証はとても重要な意味があります。アメリカのVanderbilt大学の心理学教授Keith Meadorはうつ病と宗教を信じる者たちの関係を分析し研究しました。彼は"うつ病が一般の信者たちには1.7%であるに対して、ペンテコスタル派の信者たちは5.4%である深刻な比率"を発見しました。彼の研究の結果は、1992年、12月号の、Hospital and Community誌に掲載されています。

面白いことには、それと同じ結論に到達した論文がInternational Herald Tribune誌の1993年 2月 11日号に掲載されました。"ペンテコタル派の人たちがうつ病チャートのトツプ!"この表題それ自体がよくそれを話しています。なぜそうでしょうか。ペンテコスタル派の人たちが主張している霊所有の'経験'は確かに心理的作業に過ぎない事実であるからです。


   Back
Home
Back