聖書 基本 知識
学習 6:神と罪悪
神と罪悪 | 悪魔とサタン | 悪霊 | 間違った解釈(魔法使, エデンで起ったこと, 魔王ルシフェル, イエスが受けた試練, "天での戦い")| 問題と解答

6.3 悪霊

以前の二つの学習で私たちはなぜサタンとか悪魔を人格的存在とかあるいは怪物と信じていないのを説明しました。もし私たちがそう言う存在がないと受け入れるならば、その悪魔の僕たちとなっている悪霊も存在しないことを確信するでしょう。多くの人が神は私たちに良い物を与え、悪魔は悪いもの、災いを与えるばかりでなく、良い物を取り去って行くと思っています。

聖書は明らかに神がすべての力の源泉であり(学習6.1を見よ)、また彼が私たちの生活に良い物、悪しき物を皆与える方であると教えています。

"私は光を造り、また暗きを創造し、平安を造り、また災いを創造する。私は主である、すべてこれらの事を成す者である"(イザ.45:7)。

"災いが主から出て、エルサレムの門に臨んだからである"(ミカ.1:12)。

"町にラッパが鳴ったら、民は驚かないだろうか。ヤウェがなされるのでなければ、町に災いが起こるだろうか"(アモ.3:6)。

従って私たちが試練を受ける時、私たちはそれを悪魔とか悪霊のせいにせず、神から来ることであると受け入れなければならないのです。ヨブは神が祝福して下さった多くの財産と子らを失ったけれども、彼は決して、"神が下さった物をその悪霊たちが持って行った"と話していないのです。彼が話したのを聞いて見なさい。

"ヤウェが与え、ヤウェが取られたのだ"(ヨブ.1:21)。

"私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも、受けるべきではないか"(ヨブ.2:10)。

私たちが生活で問題に出会う時、普通私たちは神にそれを処理して下さいと祈りますが、私たちが一度すべてが神から来るのであると認識すれば、彼がそれらを私たちに送って、私たちの性格を発展させ、私たちを良くするために、彼がもたらしたのであると確信するになるのです。

"私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められる時、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、鞭打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。一体、父に訓練されない子があるのか。誰でも受ける訓練があなたがたに与えないとすれば、それこそ、あなたがたは私生児であって、本当の子ではない"(ヘブ.12:5ー8)。

神はすべての力の源泉

神はすべての力の源泉であります。

"私は主である。私の他に神(神は'ヘブル語'で'力'を意味します)はない、一人もない"(イザ.45:5)。

"私の他に神があるか。私の他に岩はない。私はそのある事を知らない"(イザ.44:8)。

"ヤウェこそ神であって、他に神のない事を知らせるためであった"(申.4:35)。

このような句節が聖書を通して繰り返し話しているのが見出されます。神はすべての力の唯一の源泉であるために、彼はねたみがあることに留意しなければならないのです(実例、出.20:5; 申.4:24)。

神の民が神に対して、'あなたは力強い、偉大なる神でありますが、私たちは実際には、ほかの神たち、あなたよりは力が少ない神たちを信じています'と言ったから、神は彼らを妬みました。これは私たちが神と共に悪魔とか悪霊の存在を信ずることが出来ないのを意味しているのであり、またイスラエルが誤解していたそのことでした。旧約聖書の多くはイスラエルが真の神と共に他の神らを信ずるによって神を怒らしたのを現わしているのです。聖書の観点から見ると、今日悪霊を信じている人たちは昔偽りの神を信じていたイスラエルとちょうど同じことです。

悪霊は偶像を意味する

コリント前書で、パウロはなぜクリスチャンが偶像崇拝とかそのような物を信じてはならないかを説明しました。新約聖書の時代の人たちは悪霊が彼らの生活に訪れる災いを留めることが出来る神であると信じそれを崇拝していました。したがって彼らは偶像である、悪霊のモデルを造り、それを拝みました。それゆえに、パウロは彼の書信に同意の"悪霊"と"偶像"の言葉を交替的に使用していました。

"人々が供える者は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。私は、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。... しかし、誰がこれはささげ物の肉だと言ったらそれを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい"(コリ前.10:20、28)。それで偶像と悪霊は実際等しい者であるのを示しています。パウロが"彼らは悪霊に供えるのであって、神に供えるのでない"と、ー偶像は神でないと話しているのに注目しなさい。神はすべての力の源泉である唯一な方であるから、悪霊などはなんの力もない者です。要点はコリ前.8:4に説明しています。

"私たちは、偶像なるものは実際は世に存在しないことと、また、唯一の神の他には力のある者がないことを、知っている"。偶像、あるいは悪霊は全くこの世に存在しない者です。唯一の神だけがおり、彼がすべての力の唯一の源泉です。パウロは続いて説明して行きました(コリ前.5:6)。

"たとい神々と言われるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようであるが、私たちには、父なる唯一の神がいますのである"。

更に新約聖書の時代の人たちは悪霊を'偶像'あるいは'神'と信じていたのを立証しています(使.17:16ー18)。これはパウロがアテネで福音を伝えていたのを描写しています。そこは全市が偶像で満ちていて、多くの人がいろいろな神を拝んでいました。彼らがパウロが福音を伝えるのを聞いた後、彼らはこのように話しました。"あれは、異国の神々(ー新しい神)を伝えようとしているらしい"と、それは、"パウロがイエスと復活とを、述べ伝えていたためでした"。そのように人たちは彼が説明している"イエス"と"復活"は新しい悪霊、あるいは偶像と思っていました。その章の残りの部分を読んで行けば、パウロが彼らにいかに真理を教えたかその方法が分かるようになります。その22節ではこのように話しています。"あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられる(ー悪霊崇拝が多い)と私は見ている"。しかし真の神はあなたがたの悪霊や偶像のように供えることを欲しないと説明しました。あなたは神はすべて力の唯一の源泉であることをいつも記憶していなさい。もし神がその悪霊の内にいなければ、その悪霊はなにもなすことが出来ないのです。なぜならこの宇宙にはヤウェの神以外には力の源泉がないから、力のある悪霊はこの世に存在しないのです。

旧約聖書の悪霊は偶像

旧約聖書にもどって見ると、"悪霊"が偶像であると言われたもっと多くの証拠があります。申.28:22ー28、56ー61は、精神疾病は民の偶像/悪霊崇拝に与える一つの刑罰であると予言しています。これは悪霊が新約聖書の精神病と連合しているのを説明しているのです。しかし悪霊と言う言葉は罪でなく、病気と連合しているのに注目すべきです。新約聖書にはキリストが嫉妬とか殺人の悪霊を追い出したと書いていないのです。また悪霊が病気を起こすと言わないで、人たちが悪霊/疾病を持っていたと言うているのに注目すべきです。旧約聖書のギリシャ語翻訳本(70人訳本)は申.32:17と詩.107:37で偶像の単語を話すに"悪霊"と使用しているのです。これが新約聖書には"偶像"と翻訳されています。詩.106:36ー39はイスラエルがカナンの偶像、悪霊に祭事を執り行ったと彼らの過ちを描写しています。

"彼らは(イスラエル)自分たちのわなとなった偶像に仕えた。彼らはその息子、娘たちを悪霊にささげ、罪のない血、すなわちカナンの偶像にささげた。... このように彼らはそのわざによっておのれを汚し、その行ないによって姦淫をなした"。

偶像は確かに悪霊の一つの違う名称であります。彼らの悪霊崇拝は人間が想像して考案した物を崇拝している信仰するに過ぎないから、"彼ら自身の業、...彼ら自身が考案した物を"崇拝しているのであると描写しています。彼らが創造したその偶像は彼らの業でした。それで今日悪霊を信ずる者たちは神が私たちに教えていることでなく、人間が創造した物、皆人間が考案して作った物を信じているのです。

申.32:15ー24は神は彼の民が悪霊を信ずるのに怒りを引き起こしたことを描写しています。"あなたがたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救いの岩を侮った。彼らは他の神々に仕えて、ヤウェの妬みを起こし、憎むべき行ないをもってヤウェの怒りを引き起こした。彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それらは彼らがかって知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。... そして言われた、「私は私の顔を彼らに隠そう。... 彼らは背き、もとるやから、真実のない子らである。彼らは神でもない者をもって、私にねたみを起させ、偶像を持って、私を怒らせた。... 私は彼らの上に災いを積み重ね、私の矢を彼らに向かって射つくすであろう」"。

神は悪霊を忌まわしいもので信ずるに価値がないもの、実際存在しないものだと描写しています。悪霊を信ずることは神に信仰がないのを現わしているのです。実は神が良いものと悪いものとを、皆私たちに与えていると信ずることが難しいのです。悪いものは神以外の他の者から来ると信ずるのがたやすいからです。なぜなら私たちが一度それら皆が神から来ると言うなら、私たちに益を与えるために、また神がそれら皆を取り去って行くと信じなければならないからです。

新約聖書の悪霊

しかし、あなたは"悪霊に対して明らかに話している新約聖書のすべてのペイジは如何に理解出来るのですか"と質問するでしょう。

私たちは一つ明らかにせなければならないことがあります。聖書は全能の神の言葉であるので、絶対矛盾があり得ないのです。もし神が私たちに問題を起こし、彼がすべての力の源泉であることを確かに知っているならば、聖書には、私たちに問題を起し、神に対抗する小さな神、悪霊は存在しないことをはっきりと分かるでしょう。旧約聖書にはただ四度"悪霊"と言う言葉が出て来て、それらが偶像崇拝を描写しているのに対して、新約聖書の福音書には数多くその言葉が出て来るのはとても意義があるのです。これは福音書が書かれる当時、原因を知らない病気は悪霊によって起こると誤った考えで人たちが話していた当時の語法を使用したためであります。もし悪魔が実際存在し、疾病を犯し、人たちに問題を起しているとすれば、旧約聖書にもそれに対して書かれていることを多く読むことが出来るでしょう。しかし私たちは旧約聖書でそれらに対して書かれた句節を見出すことが出来ないのです。

新約聖書にある悪霊

その悪霊が人から追い出されたと言う言葉は彼らが精神病、あるいは原因を知らない病から治癒されたと言う意味でした。1世紀に住んでいた人たちは彼らが分からないことはすべて彼らの想像に存在する者"悪霊"から起こったとその悪霊を咎める傾向がありました。彼らの医学水準では精神病にかかる原因を知らなかったから、人たちはその患者を'悪魔に所有された'と話しました。旧約聖書の時代では、精神病にかかって病む人たちを悪霊あるいは汚い霊が彼らに入って作用すると思っていました(士.9:23; サム上.16:14; 18:10)。新約聖書の時代でも、精神病にかかって病む人は汚れた悪霊/鬼神につかれたと話していました。その悪霊とその疾病を連合して話したのを次の句節らが示しています。"夕暮れになると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来たので、イエスは言葉を持って霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。これは、予言者イザヤによって、「彼は、私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである"(マタ.8:16、17)。だから人間のわずらいと病気は"悪霊"と"汚れた霊"つかされたと話すのと同じい意味です。

当時の人たちはイエスが悪霊を持っているために気が狂っていると思っていました。"彼は悪霊にとりつかれて、気が狂っている"(ヨハ.10:20; 7:19、20; 8:52)。従って彼らは悪霊が気を狂わせると信じていました。

疾病治癒法

彼らはその病気が癒された時、"悪霊につかれていた"者が"正気になった"と話しました:マコ.6:15; ルカ.8:35。これは精神的に正しくない者を"悪霊につかれた"者であると他の言葉で話しているのでした。

その精神疾病に掛かっている者を癒したと話すことを(マタ.4:24; 12:22; 17:18)"悪霊を追い出した"と違う言葉で話しました。

ルカ.10:9でイエスは70人の使徒を遣わしながら、彼らに"病者を癒せ"と告げましたが、彼らはそれをなすことが出来ました。彼らは帰って来て、"あなたの名によって、悪霊までが私たちに服従しました"(17節)とイエスに報告しています。繰り返して言いますが、悪霊は精神病と同じ言葉です。使徒たちは度々イエスの名によって人たちを癒しました。ここにその実例があります(使.3:6; 9:34を見なさい)。

当時使用していた言語

新約聖書が書かれる時代には、人が精神病とかあるいは原因の分からない疾病に掛かっている者を悪霊に取り付かれていると話していました。同時代のローマとギリシャ文化の信仰は人に悪霊が入って来て精神病を起こすと考えていました。今も悪霊の存在を信じている'クリスチャン'は実際その地域にあった当時の異教的信仰が正しいと話しているのです。聖書は当時の人たちが理解出来る言葉で書かれています。聖書は当時の言葉を使用したためにそのように表現されているのであって、悪霊の存在とかあるいはイエスがそれを信じていたのではありません。それと同じく、英語を使用している地域では癲癇病を'Lunatic'と言って、それは月の神の怒りを受けて(Moon-Struck)、そのようになると思っていました。昔からそこの人たちは明るい月の夜歩いていると、月の神の怒りを受けて癲癇を起こすと考えていました。今でも病院ではその言葉、"Lunatic"を使用していますが、誰もそのように月よって癲癇が起こるとは思ってはいないのです。

もしイエスがこの地に帰って来ないで、この言葉が書かれている聖書を2000年の後の人たちが読むとすれば、彼らは月が人を発狂させると私たちが信じていたと考えるでしょう。しかしそれは2000年前イエスが当時の言葉を使用したように、私たちもそれを使用しているのを考えていないのです。それと同じく、英語の言葉を話している地域では混乱されている状態を"St.VituのDance"と言う伝来の言葉があります。それはその混乱がSt.VituのDanceによって起こったのでないけれども、今もその言葉を使っています。またイエス.キリストの誕生日が12月25日でなくても、本著者もその日を'クリスマスの日'と使用しています。その言葉を使っていても、その日をキリストの誕生日とは信じていないのです。週間の曜日の名前もそれと同じく、日曜日は太陽、土曜日は土星、月曜日は月を崇拝する異教の偶像崇拝に基礎してつけた日の名前であります。しかしこれらの言葉を使用しているけれども、その異教の信仰を持っているのではないのです。'インフルエンザ'(Influenza)も今日使用いています。その言葉'インフルエンザ、Influenced by demons'は元来悪霊の影響を受けたと言う意味です。ダニエルの名が、異教の神を反映するベルテシャザル(Belteshazzar)とつけ直され時、神の霊感によって書かれているダニ.4:19はその間違った考えを正さずそのまま呼んでいます。私が'教王'と呼ぶ時、その人が実際キリスト教の王であるから、そんなに呼ぶのではなく、それが間違っていることを知っていでも、彼が誰かを認定するためにそんなに呼んでいるのです(マタ.23:9)。

エゼキエルの時代イスラエルにはイスラエルの土地に住む者には不幸に落ちると言う迷信がはやっていました。これは事実でないと神は当時流行して考えを使ってイスラエルに説き伏せました。"ヤウェなる神はこう言われる、彼らはあなたがたに向かって、「あなたは人を食い、あなたの民に子のない嘆きをさせる」と言う。あなたはもはや人を食わない。あなたの民に重ねて子のない嘆きをさせることはないと、ヤウェなる神は言われる"(エゼ.36:13、14)。その時海は地を飲み込もうとする一つの巨大なる怪物であると言う異教の概念が広がっていました。これは確かに事実でないのにも拘わらず、聖書は度々その言葉を使用し比喩的に現わしてその意味を良く把握するようにしています(ヨブ.7:12; アモ.9:3; エレ.5:22; 詩.89:9; ハバ.3:10; マタ.14:22; マコ.4:30を見なさい)。アッシリアの迷信はこの反逆的海の怪物を'ラハブ'と呼び、その名をエジプトにつけていました(イザ.51:9)。

聖書が神の霊感によって書かれていると信じるなら、聖書に当時の異教概念を反映していることは絶対ないでしょう。神が究極的力の源泉であることを示すために、同時代の信仰を意識的に言及しているのに違いないのです。彼は海の'怪物'を支配する唯一なかたです。そこで、そのように使用したのは彼の意志によるのです。従って神はその人たちの信仰にある根本的過ちを正しました。それはこの世に神の支配に従わないで、作用する力、すなわち悪の力を暗示するのです。しかし、聖書はこのことに関して、海に飲み込もうとしている巨大な怪物があるとか、あるいは海が怪物であると言う、愚かな信仰を破壊するのであり、それを指示するのではないのでした。

他の実例は稲妻とあらし雲を"曲がった大蛇"(ヨブ.26:13; イザ.17:1)と話していることです。これは確かに同時代の異教が稲妻とあらしの雲は曲がっている巨大な蛇が実際形成すると信じていた信仰でした。この句節はそのような愚かな考えを明かすとか、科学的に説明しないでそのままその言葉を使用しているのです。その代りに神がそれらを支配すると力説しています。人たちが広く悪霊を信じている信仰に対するキリストの態度もこの点に関しては彼らと全く同じでした。彼の奇蹟らはいわゆる'悪霊'に関して迷信している人たちに神の力が絶対的に完全であり、限りのないことを明らかに立証しました。'悪霊'に関する新約聖書の記録がそのようなものが実際存在することを立証していると信じている者たちは海が実際怪物であり、稲妻が実際巨大な蛇であることも受け入れなけらばならないのです。これは必ず留意すべき点であります。聖書は、その言語を基礎とした信仰を指示することとは別に、そこに書かれている当時の言葉を使用していることを認識しなければならなのです。私たちはそれと同じく現在の言葉を使用しています。聖書は学習6.1と学習6.2で学習した神は全能であると言う基礎真理を確認させるためにそれらを利用しているのです。神は私たちの試練に与えますが、私たちに罪を犯させるのではないから、罪は私たちに責任があります。これは皆私たちを救う神の力の偉大さを認識させるに意味があるのです。いわゆる'高等批評家たちは'継続的に霊感されて書かれた聖書に、その言葉と信仰と周囲の文化概念が連合されていると思いその連結の輪を発掘しています。私たちが一旦聖書はその地方の異教で話していた言語が使用されていることを認識すると、霊感された聖書を読んで、予言者の口から出たさわやかな時期を知っている者たちが既に持っていたつまらない信仰の対象よりは唯一の神、"ヤウェ"がはるかに偉大なかたであることを示すためにそのようにしたのを理解するでしょう

これを留意して聖書を読むなら、新約聖書には当時使用していた理に適わない言葉を訂正しないでそのまま使用している数多くの実例を発見するでしょう。ではその実例を上げて見ます。

パリサイ人たちはイエスがバアル.ゼブブと呼ばれる偽りの神の力によって奇蹟をなすと彼を訴えました。それに対してイエスは"もし私がバアル.ゼブブによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間は誰によって追い出すのであろうか"(マタ.12:27)と話しました。王下.1:2にはバアル.ゼブブがペリシテノ偽りの神であると明らかに告げています。'さあ、王下.1:2を見よ、バアル.ゼブブは偽りの神です。だからあなたがたの訴えは正当でありません'と言わないで、彼は自分の教えを聞いている人たちに彼のメッセージを納得させるために、バアル.ゼブブが存在しているように話しました。それと同じくイエスは、その悪霊は存在しないと言わないで、悪霊を追い出したと話しています。彼は当時使用していた言葉で彼の教えを伝えました。

使.16:16ー18は使徒ルカが霊感によって話したことです。"私たちは占いの悪霊(Pythonの霊)につかれた女奴隷に出会った"。そのPythonは1世紀アポロと同じく人たちが信じていた一つの偽りの神でした。それでPythonは決定的に存在しないものです。しかしルカはそんなに言わないで、その小女が'Pythonの霊につかわれた'と言って存在していない偽りの神が存在しているように話ました。それと同じく、福音書でも、そのように、イエスは存在していない悪霊を追い出したと話しています。それはただ当時の言葉で話したのです。

ルカ.5:32の記録は、イエスが悪のユダヤ人たちに"私が来たのは、義人を招くためではない"と話しているのです。これは彼が'私は彼ら自身義人であると信じている人たちを招くために来たのではない'と言うことでした。イエスは、事実を話していなかった当時の話し方で話したのでした。ルカ.19:20ー23には、その比喩にある一タラントを受けていた者の事実でない言葉をイエスが使用して示しています。しかし彼はその事実でない話しを訂正していません。

聖書は度々'太陽が上り、沈む'と話しています。これは普通人たちが使用している言葉ですが、科学的には事実でないのです。それと同じく病気にかかっているのを悪霊につかれていると言うのは科学的には正しくない表現です。使.5:3でアナニアが聖霊を欺いたと話しています。これは実際に不可能なことです。実際はそうでないですが、しかしアナニア自身は事実のようにが考えていたのでした。

聖書に書かれている言葉は当時の人たちには良く理解出来る言葉でしたが、今は私たちに不慣れである言葉であります。その実例を上げれば、"皮には皮"(ヨブ.2:4)と言ったのは古代の貿易の価格計算法を言及しているのであり、男娼が"犬"と呼ばれていました(申.23:18)。悪霊の言葉はその一つの例です。

キリストの時代のユダヤ人たちは彼らはアブラハムの子孫であるから、義人であると思っていました。従ってイエスは彼らを"義人"と呼び(マタ.9:12、13)、そして"私はあなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている"(ヨハ.8:37)と話しました。しかしイエスは彼らが義人であると信じなかったのでした。彼は度々その点について明らかにし、彼らがアブラハムの子孫になれない理由を上げて話しました(ヨハ.8:39ー44)。そのようにイエスは人たちの信仰を直接に反駁しないで、額面通り取り扱いましたが、その代わりにただ真理を立証するだけでした。これが旧約聖書の時代一般的に異教の信仰を取り扱う神の取り上げ方であった事を示しました。新約聖書で悪霊に対するキリストの態度はそれと同じです。すべての患者を癒す偉大なる力を持つ神であると言う観点から、神が下さったイエスの奇蹟らは、すべての力が他でなく、ただ神から来るのをもっと明らかにしました。

パウロはギリシャの詩人たちが教えたことを信じている者たちを混同させるために、彼らがかき回されるべきその詩人たちが話している非聖書的ナンセンセンスを引用しました(テト.1:12; 使.17:28)。私たちが提示していることはパウロが"知れない神"、すなわち存在するであろう思っている異教の神を拝むために捧げた祭壇を見つけて反応したのを要約したのです。しかしアテネの人たちはそれを見逃していました。パウロはこれを見逃す彼らの愚かさを非難する代りに、彼らが知らない神から真の神を理解するように取り扱って話しました(使.17:22、23)。

エペ.2:2は"空中の権を持つ君"と話しています。これは確かにパウロの読者たちがかねて信じた種類のゾロアスター教の神話の概念を言及しているのです。パウロは彼らがかって"空中の権を持っている君"の下で生きていたと話しています。この句節で、パウロはこれは"不従順の子ら(肉の人たち)の中に今も働いている霊(心の態度)"であると定義しました。以前に彼らは天の霊的君を信仰する異教の概念を信じていました。今パウロは彼らが実際堅苦しく従順していた権力は彼ら自身の肉の心であるとその点を力説しています。このように、罪に関する真理を示すために、何の特別な非難もせずに、異教の思想が言及されています。

使.28:3ー6は一匹の致死のまむしがパウロの手にかみついたことを話しています。周囲の人たちは、パウロが人殺しであるから、"ディケーの神が生かしておかない"と思っていました。その事態に対する彼らの考えは全く間違っていました。しかしパウロはその間違っていた考えに対して詳しく説明しないで、その代りに、彼は奇蹟を行ない、彼の手に噛付いているその蛇を取って火の中に放しました。

イエスはその地方の間違った考え、習慣、例えば、悪霊等に対して、多くの言葉を話してその考えを正しくする代りに、奇蹟を行ってそれらをなくしました。ユダヤ人たちがイエスに対して、彼は神の冒涜者であり、そして神だけが罪を赦すと、二つことで非難しました(ルカ.5:21)。しかしイエスは言葉で彼らの考えを正しくしないで、その代りに奇蹟を行って彼らの間違った考えを立証したのでした。

イエスの信条は論より証拠でありました。彼は間違った考えを直接に摘発したことがありません。彼はモーセの律法が救いを与えることが出来ないと非難する代わりに、安息日に病者を癒す等、行動を持って真理を示しました。イエスはサマリア人であると偽りに訴えられた時、彼がアブラハムのその子孫であるユダヤ人であったけれども、重要な神の救いの計画のために(ヨハ.4:22)、それを直接に否認していないのでした(ヨハ.8:48、49、4:7ー9,比較)。

ユダヤ人たちが故意的にイエスが"自分を神と等しい者とする"と非難する時さえ(ヨハ.5:18)、イエスはそれを否認する説明をしなかったのでした。その代りに、彼の奇蹟を彼らに見せて彼が神の代りに働いている人である事を強く説破して、自分が神と等しくないのを見せました。それと同じく、イエスの奇蹟は彼らが悪霊の存在を信じている間違いを現わしました。ベテスダの池のそばで不具の者を治癒したキリストの奇蹟は、過ぎ越しの祭りの時天使が降りてその池の水を動かせるのでその水につけると病気が癒されると言う神話を信じているユダヤ人たちの信仰の愚かさを現わしました。この神話はその真実に関して何の否定もしないでそのまま記録されています。キリストの奇蹟の記録はその偽りをさらしています(ヨハ.5:4)。

ペテ后.2:4には悪人はタルタロス(多くの訳本はよみ{陰府}と翻訳している)に行くと伝えられた言葉を使用しています。タルタロスは一つの伝説の所でした。しかしペテロはその観念を正しくしないで、そこを罪の刑罰のために完全に滅亡する所の象徴として使用しました。キリストがゲヘナと言う言葉を使用したのもそれと同じことです(学習4.9を見よ)。

悪霊が実際病気を起こすのか

悪霊が存在すると信じている者は誰でも彼自身に尋ねて見なければならないのです。"自分が病気にかかった時、これはその悪霊が起したのか"と。あなたが、もしその悪を行ないながら巡り回る小さい神たちと言われる悪霊に対する新約聖書の言葉を信ずるなら、"そうである"と答なければならないのです。その場合、あなたは悪霊が起している多くの病気が薬によって癒され、あるいは病勢が良くなる事実を如何に説明出来るのですか。マラリアはその標準的実例であります。アフリカにいる大部分の人が最近までマラリアは悪霊が起こす病気と信じています。しかしそのマラリアがキニーネ剤によって癒されるのを私たちは良く知っています。ではあなたはその悪霊がその小さな黄色いタブレットがあなたの喉に降り行くのを見て怖がられて飛び去ると思うのですか。イエスが治癒した病気のいくつは悪霊につかれていた結果起こったと描写されていまが、それは破傷風や癲癇病でした。これらは現在薬で充分治癒出来るのです。

ウガンダのカムパラの郊外の小さい村に住んでいる友人が一度私を訪れたことがあります。彼はマラリアが悪霊によって起されると信じていた人たちが一度薬がその悪霊を支配するのを見て、彼らは悪霊を非難することを止めたと彼は私に告げました。しかし大脳マラリア(精神攪乱を起こす深刻なマラリア病の一種)にかかった時は、彼らがまだその悪霊を非難していると話していました。近くの都市にある医者が来てその患者に強い反ーマラリア剤を与えたが、彼はそれを拒絶しました。それはマラリアでなく、悪霊であるから彼と戦わなければならな言うのでした。その医者は帰り来て"私はその悪霊を追い出す薬を持って来た"と話しました。彼はその薬を熱心に服用して良くなりました。その二番めのタブレットはその始めのものと同じものでした。その医者は悪霊の存在を信じていなかったけれども、その患者を癒すためにその言葉を使用しました。2000年前の"偉大なる医者"主イエスもそれと同じくその言葉を使用したのでした。


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