聖書 基本 知識
学習 10:キリストに預るバプテスマ
バプテスマの重要性 | バプテスマの形式 | バプテスマの意義 | バプテスマと救い | 間違った解釈(再ーバプテスマ, バプテスマが要求する必須的知識, 十字架に付けられたその犯罪者, 模範的バプテスマ儀式)| 問題と解答

間違った解釈31:バプテスマに必須的知識

読者の多くがいわゆる'福音教会'の伝道者たちと向かい会ったことがあるでしょう。彼らは救いに教理は重要なものでなく、ただ'イエス.キリストを神の子であると信ずれば'救いを得るに充分であると言い、そのように口で告白させています。そのような会話が使徒行伝に記録されているばかりでなく、人たちに'愛'と'寛容'がこの時代精神として訴えている現代であるから、この言葉は皮相的にはもっともらしく思われます。この学習ではその点を正すために、重要な基本教理をもっと深く分析して見ましょう。

なぜ急ぎたてるのか

使徒行伝を早く読んで行けば、多くのバプテスマがわずかな福音の基本知識を得て、そしてたただキリストを神の子であると簡単に告白するによって施行されたような印象を受けるのは疑いない事実です。救いを得る方法として'私はキリストを信ずる'と幾つかの言葉を話すことは確かに何の意味もないのです。福音主義者の大多数がそんなふうに話している者たちの心になにか他の知識あるいは認識がいなければその言葉が意味がないと承認するでしょう。この点は確証するのが難しくないのです。では、神の子としてキリストを信じているとの信仰告白が記録されたその句節の言葉が、救いに必要なすべてのことを告白していると立証することは難しいのです。何か他の感情と信仰を持っていながら、ただその簡単な句節で告白するの持って、救いの道に入ったと言われないのです。次のいろいろな論点は一見短時間に改宗されたようなことを良く説明しているのです。

使徒行伝は他の多くの聖書と同じく必要なことだけを抽出して簡潔に圧縮されている本です。使徒行伝に記録された演説を声高く読んで行くのは興味のある訓練でありますが、それには多くの時間がかかります。それには記録されてない多くのことも含まれているから、実際はより多くのかなり長い時間かかるのです。その幾つかの実例を調べて見ましょう。

エルサレムで話したパウロの弁解はそれを読むに4分くらいかかり(使.22章)。ペリクスの前の弁護は1分間、アグリッパ王の前の弁護は4分間、ペテロの五旬節の講演は4分間、コルネリオの家で話した教えは3分間、5000人を食わせた後の主の講演は6分間(ヨハ6章)。山上垂訓の説教は18分間、使.3:12ー26のペテロの伝道は高い声で読むと2分間かかり、"祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちに"伝道した内用を読むには多くの時間がかかります(使.4:1)。

バプテスマを受ける者により長い指示が言及されていないこの事実がなにも起こってない事を立証するのではないのです。この沈黙から起こる論争はこの場合とても疑わしいです。

初期伝道者たちは"知識の賜物(奇蹟的)、霊(心)を区別する賜物によって、彼らの教えを聞いている者たちの心を読むことが出来るので、私たちが今実施しているバプテスマのインタビューが必要ではないのでした。

キリスト教の始めにエルサレムで起こったユダヤ人の大群集のバプテスマは一つの特別な場合でした。1世紀の後にはそのように多数の人がバプテスマを受けたことがないのです。もしその規模の改宗が継続的に起こったなら、わずか数年の間にエルサレムの全体がクリスチャンになったでしょう。この人たちは皆ユダヤ人であったので、彼らは旧約聖書と神の道に対してかなり多くの知識を持っていたのを意味しています。パウロのヘブル書の深遠さとペテロのユダヤ人たちに書いた手紙は、彼らの読者たちが旧約聖書にある多くのほのめかしを理解する能力があったのを示しています。パウロはメルキゼデクに対して話したことはただ神の言葉の乳に過ぎないと描写しながら、彼らが霊的に未熟な状態であるためにメルキゼデクに対してもっと詳細に話すことが出来なかったとを嘆きよろめているのです(ヘブ.5:11、12)。パウロが指摘した彼らの知識の水準は彼らの改宗の時と同じものであるから、その時から少しも成長していないのを非難しています。その手紙は主にエルサレムのエケレーシャに書いているもので、彼らの大部分が使徒行伝の始めに書かれている初期にバプテスマを受けていました。

私たちは、使徒行伝に書かれているようにキリストの名を伝播とその名の告白はその教理の本体(FORM)を詳細に理解していたのと同じことであると示したいのです

パウロは伝道チームを造って、教理を教える者とバプテスマを施行する者を分かちて効果的に運用したようです(コリ前.1:17)。それによって、彼は比較的に短い間一ヵ所に留まり、他の所に移動することが出来たでしょう。

イエスの名

神の名には彼に対する多くの教えと彼の道が含まれています。神の名と彼の称呼には彼の性格と目的が現れています。イエス.キリストの名もまた彼の名称だけでなく、教理に関する深い意味が現れています。

イエスの名を信じるのはバプテスマを受けるのに匹敵するのです(ヨハ.3:5、18、23)。ガラ.3:26、27には、"あなたがたはみな、キリスト.イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は、皆キリストを着たのである"このように信仰とバプテスマの連結が次の句節らで見つかります、使.19:4; 10:42、48と比較; 2:37、38; ルカ.24:47。ヨハネのバプテスマを知っていたアポロは(使.18:25)、バプテスマがただ一つの行為でなく、福音の教えが含まれているのを示しています、

"ピリポはサマリヤの町で、人々にキリストを宣べ始めた"(使.8:5)。この節はちょうど彼が'イエスを信じなさい'と叫んだように思われます。しかし彼は"キリスト"に関して定義しています(使.8:12)。"ところが、ピリポが神の国とイエス.キリストの名について宣べ伝えるに及んで、彼らはバプテスマを受けました"。ここに"キリストの事について"のその"事"は単数でなく、複数になっているのでそれには多くのこと、教理全体を話すのであって、バプテスマを受けることも含まれているのです。ヨハ.6:40には"子を見て信じ、永遠の命を得ることが"神の意志であると私たちに告げています。その後イエスは"神のみ心を行う者は、神の教理を分かる"と話しています(ヨハ.7:17)。このようにその教理を分かるのは子を見るのと同じと話しました。キリストの言葉は、"私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである"(啓.3:8)と、またキリストの言葉がキリストの名に匹敵するのを示しています。キリストは霊感の下で、"異邦人は彼の名に望みを置くであろう"(マタ.12:21)と言われた言葉を、"海沿いの島はその(キリスト)律法を待ち望む"とイザ.42:4を引用して、彼の名は彼の福音と等しいことを示しました。ヨハネの第二、第三の手紙には巡回伝道師に対して話しています。"彼らを神の御心に適うように送り出だしてくれたら、それらは願わしいことである。彼らは、み名のために旅立った者である"(ヨハ3.6、7)。これは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよと言われたマコ.16:15、16の任務をほのめかしているようです。このようにキリストの名と彼の名が等しいことになっています。従って聖書的に'キリストを信じる'と言うことはバプテスマを受けることが含まれています。"あなたがたはみな、キリスト.イエスにある信仰によって、神の子なのである。なぜなら、キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである"(ガラ.3:26、27)。パウロはキリストを信じる彼らの信仰が自動的に彼らのバプテスマで表現したことに含まれているように話しています。このようにキリストを信じることは、'私はキリストを信じる'とただ短く口で告白するのでなく、その後に従う服従がある一つの過程であるのです。これはヨハ.6:35に良く現れています。"私に来る者は決して飢えることがなく 、私を信じる者は決して渇くことがない"と、これはキリストを信じることと彼に来るのが等しいのを示し、信仰が一つの過程であるのを現わしています。

それゆえに、"キリスト"の伝播には一連の教理が含まれています。ルカ.9:11に神の国の福音をキリストが伝播した描写していますが(マタ.4:24と比較)、マコ.6:34には彼の福音伝播に対して、彼らに"いろいろと教え始めた"と書かれています。福音はキリストに対する数分の簡単な話しでなく、"いろいろなこと"ことが含まれているのです。"その町で福音を伝えて、多くのことを教えた"(使.14:21)と言われたこのような句節は福音を伝えることと教えることが等しいのを示しています。もしその福音がただ簡単な話であったなら、そのように多く教える必用はなかったでしょう。ベレヤでパウロが福音を伝えた結果、人たちがパウロが教えているのが正しいのか毎日聖書(旧約聖書)を調べて見るようになりました(使.17:11)。従ってパウロが教えた福音は旧約聖書全般にわたっている教理に根拠するものであり、人たちはそれを彼に聞いた後一連の聖書学習の過程を経て信じるになりました。"そういうわけで、彼らのうちの多くが信者になった"(使.17:12)のでした。私たちが聖書の知識を持っていない者に福音を伝え、そしてその伝えたことを毎日学習しない者には、1世紀のその人たちよりもっと多くの時間がかかるのです。"すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である"(ヨハ1.5:1)と言うことは確かにこような句節、"真理の言葉によって御旨のままに、生み出し下さったのである"(ヤコ.1:18)、"あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのである。... あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である"(ペテ前.1:23、25)に相当するのです。このキリストが神の子であることを信じると言うことは、神の言葉に含まれているその福音を認識している事実の要約を示しているのです。

神の国の王

'キリストを信じる'と言うことは、'キリスト'の呼称がある句節ではキリストの国と同義語として読むことが出来ることをいったん理解してしまえばもっと意義深くなります。主はパリサイ人たちにすでにメシヤが来て彼らの中に立っているから彼を探しめぐる必用がないと彼らに告げました。彼がこれをこのように、"その国"はその国の王と等しいのを知らせながら、"神の国は実にあなたがたの真ん中にあるのだ"(ルカ.17:21)と話しました。従ってバプテスト.ヨハネの伝道にも、"神の国が近づいた"と言うのはキリストの現れを話すのでした。ネブカデネザルが夢に見たその像を打ち砕いたその石は神の国を現わしているのです(ダニ.2:44)。"これらのもろもろの国を打ち破る"のはその石/国であり、その国であるその石がその像を打ち砕くと同時に滅亡させるのです。これと同じ脈絡でエゼキエルの香栢の比喩には"柔らかい芽を摘みとり...山に植えた"その木が大きくなって、"その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣を作る"(エゼ.17:22、23)と描写されました。"その柔らかい芽"(イザ.53:2)はキリストに関して話しているのです。なおそれは確かにからしの種のイエスの比喩と連結されています。その内には、神の国は一粒のからしの種が畑に播かれて大きな木に成長したようなもので、空のすべての鳥が来てその枝に宿ると話しています。その国の言葉とイエス自身が連結しているのは彼自身をその国の生きている言葉として示しているからです。これで'キリストを信じる'と神の国の福音を信じると言うのが一致するのを理解出来るのです。

福音とは何か

私たちが今は1世紀の信者たちの中にあった基本教理は何であったかもっと詳細に討議して見るようになりました。新約聖書の時代には私たちの"信仰告白書"のような教理の本体があったのを認定しなければならないのです。またもう一つ留意しなければならないことは予言の賜物、霊感の下で神から直接受けた啓示を受けていた兄弟たちが生きていたことです。その時はこの教理の本体に霊感によって話したことが加われたと信ずべき根拠があります。

教理の本体

パウロはローマのエケーレシャに"あなたがたは、(少なくとも彼らがバプテスマを受ける前に)伝えられた教理の本体に心から服従した"(ロマ.6:17)と話しました。この"本体"と翻訳されたはギリシャ語は"手本"または"原形"とも翻訳されています。これはその教理の本体を複写した副本に対して話しているのです。これに関するパウロの話はバプテスマの前に認識すべきその教理の本体の重要性と、そしてまたそれはい現在多くの教会で行っているようなバプテスマの前に述べるべき簡単な告白ではなかったのを指摘しています。そのエケーレシャの内のある者たちは"信心深い様子をしながらその実を捨てる者"(テモ后.3:5)がありました。多分彼らは信仰の基本教理を持ち続けていても、彼らの日常生活にその真理の力を認定しないでいたでしょう。パウロは"十字架につけられたイエス.キリストが、あなたがたの前に描き出されたのも"(ガラ.3:1)読むことが出来ないかと話したガラテヤのエケレーシャにその教理を思い出させました。"描き出された"と翻訳されたギリシャ語は実際に'書かれた言葉'を意味するから,それは最初にガラテヤ人たちに教えた教理の教本を指摘しているのです

パウロが復活の教理を定義する時、私が"あなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわち、キリストが私たちのために死んだこと"(コリ前.15:3)であると、彼がこのことに対して神から啓示を受け、そしてそれを彼らが受けるべき基本教理として伝えたと話しています。ペテ后.2:21、22はそれと類似することです。"義の道を心得ていないから、自分に授けられた聖なる戒めに背くよりは、豚は洗われても(バプテスマで)、また、どろの中にころがって行く(戻る)"。ここで彼らに"授けられた""道"と"聖なる戒め"はバプテスマの洗いと連結されるのであって、彼らがバプテスマを受ける前に認識していた教理でした。私たちはバプテスマの前に理解すべき命令はただ一つでないのを示しました。従って単数の言葉のその"命令"はバプテスマの前に必ず認識すべき確かなその教理の本体であることを提示しているのです。教理と"福音"に対して教えを受けたと話した数節があります。ガラ.1:9、12; ピリ.4:9; コロ.2:6; テサ前.1:6; 2:13; 4:1。これらは使徒たちが始め'受けて'彼らが伝えた"福音"がその教理の本体を構成していることを確証しています。

信仰

使徒ユダもまた"聖徒たちによって一度伝えられた信仰"(ユダ.3)と話しています。"その信仰"はバプテスマの前に彼らに伝えた"教理の本体"に匹敵するのです。そしてそれが教理の本体を話している1世紀のごい(語彙)の中にある他の句節にもあるのです。パウロの勧告の言葉、"信仰の告白をしっかりと持ち続け"(ヘブ.10:23)といったことは、彼らがバプテスマを受ける前に信条を告白した"その信仰をほのめかしているのです。"信頼すべき言葉"を保つこと(テト.1:9)は彼らが主から始めに教えられたこの'信仰の声明'を維持することを話しているのです。"同じうする信仰"(テト.1:4)はすべての信者が預かっている教理の本体を示しているのです。"一つの信仰"がありました(エペ.4:5)。"その信仰"とキリストの名が使.3:16に連結されています。私たちはキリストの名が"その信仰"と連結されている同じ教えの他の名であることを分かりました。キリスト教の実践的事項(テモ前.6:10)と教理(テモ前.4:1)に対して、パウロはある者たちが"信仰から離れ去るであろう"と警告しました。教理から離脱する始めの段階は"その信仰"は定義することが出来ないと言うことです。

実践事項

実践事項もやはりその教理の本体の一部です。"キリストにある信仰"には"義、節制、未来の裁きら"が(使.24:24、25)含まれています。パウロは復活に関する教えを伝え、パンをさく記念礼拝に対することを指示しながら話しています。"私は、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである"(コリ前.11:23)。これはこのような実践すべき一つのグループがいたのを現わし、そしてそれには後ほどパウロがエケレーシャにある姉妹たちの位置に対する教えも含めています。"あなたがたに伝えた通りに言い伝えを守っているので、... しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。...女の頭は男であり、..."(コリ前.11:2、3)。これはバプテスマの前にこのことを必ず説明しておくことと、それが1世紀に要求していた教理の本体の一部であることを指摘しているのです。テサ后.3:6と2:15には"私たちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。...堅く立って、私たちの言葉や手紙で教えられた言い伝えを、しっかりと守りなさい"。"教えにかなった信頼すべき言葉(教理と同じ文書に対する他の描写)を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教えによって人をさとし、また、反対者の誤りをを指摘することが出来るためである"(テト.1:9)と勧告しています。

初期のエケレーシャに、自分がその教理の本体に加えなければならない教理を神から啓示で受けたと主張する"偽りの予言者たち"がいたのが分かります。パウロは霊感によって受けた教理の"信頼すべき言葉"(テト.1:9; 3:8;テモ后.2:11;テモ前.4:9)を強調し、それらは"そのまま受けるに足る"(テモ前.1:15; 4:9)、すなわち、"その信仰"を構成する教理の本体であると話しました。これが、"すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、試しなさい"(ヨハ.4:1)とヨハネが警告した理由です。

特別な事項

次のことはバプテスマを受ける前に必ず認識しなければならなかった福音の基本的の一部として教えていた単純な'キリストにある信仰'の教理に関する明白な実例であります。

"私の福音によれば、神がキリスト.イエスによって人々の隠れた事がらを裁かれる"(パウロが伝播したことの一つ、ロマ.2:16)。従って裁きの座とその責任に関する教理は'基礎の原則'と重要視されています、使.24:25; ヘブ.6:1、2。

救いを得るには割礼を受けなければならないと言う考えは"違った福音"(ガラ.1:6)とパウロは描写しています。このようにモーセの律法、例えば、安息日などを守ってはならないことを知っているのが正しく福音を認識しているのです。

"その国の福音は"キリストに対してばかりでなく、また来るべき彼の国と話されています。イザ.52:7には(ロマ.10:15と比較)"シオンに向かってあなたの神は王(その国)となられた"と福音を伝える者と描写されています。

キリストの本性の'良い点'を正しく認識していなければ交わりに問題が起こります(ヨハ2.7ー10)。なぜならば福音にはキリストに関する事らが含まれているからです(使.8:12)。ただキリストを信ずるというのはキリスト教信者であることを充分表現するのではないのです。

その国に対した約束はその福音の重要な部分です。福音のその約束を通してアブラハム(ガラ.3:8)とイスラエル(ヘブ.4:2)に伝えられましたた。パウロはダビデに約束したことを伝える彼の福音は"救いの言葉"であると話しています(使.13:23,26)。従ってそれらは救いのメッセージの重要な部分です。彼は"私たちは神が先祖たちに対してなされた約束をここに述べ伝えている"(使.13:32)と話しています。それと同様に、ロマ.1:1-4では、"この福音は、... ダビデの子孫から生まれたイエス.キリスト,彼の御子に関するものである"と話しています。

その約束を理解するにはイスラエルの歴史に関する知識が必要です。使徒行伝13章、アンテオケでパウロが伝えた彼の教えには、その約束を特別に強調し、それらがイエスにおいて成就されたのを力説するためにイスラエルの歴史を要約して示しました。彼の伝えはそのようにイスラエルの歴史に基礎したものであり、福音の'解説'と呼ばれることであり、彼の伝えたその言葉に応じない者が受けるべき裁きの結果に対して警告しているのが結論でした(使.13:40、41)。

結論

この重要性はいくら強調しても度を過ぎることはないでしょう。"自分のことと教のことに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる"(テモ前.4:13ー16)。付録1にある重要な教理の表を参考しなさい。それらは霊感によるのではないけれども、聖書から抽出したものであって、"信仰に関する"福音の教えのすべてであります。この学習は読者が受け入れに怠けなく、それに忠誠になることを願っている教理の本体の決定的必要性を示しているのです。この教理の本体の内容はバプテスマを受ける者たちに指示すべきことで構成されているから、彼らが完全に認識しているか必ず彼らと充分討議すべきことであります。信者が困難の時"その信仰に"くっついているように、たびたび勧告しています。"神のゆるがない土台はすえられている"。その基礎教理に精通になり、神の完全な目的の不思議な方法を堅く保つのは、それ自体が私たちを勧告するのです。ただこのことを規則的に伝えることと復習することによってその恩典と意味をより深く自分のものに確信し、パウロが暗黒や孤独な時に話したように私たちも話すことが出来るのです。"私は走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。... 私は自分の信じたかたを知っており、... かの日に至るまで守って下さることが出来ると、確信しているからである"(テモ后.4:7; 1:12)。

脚注:主イエスを告白すること

"自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人中からイエスを蘇らせたと信じるなら、あなたは救われる"(ロマ.10:9)。

次の事を確実にしなければならないのです。

主イエスは、バプテスマを受けるに含まれている、"神の国とイエス.キリストの名"(使.8:5、12節と比較)で構成されているその教理の本体の同義語であると示しました。パウロが話したその'信仰告白'はバプテスマの時にいたのでしょう。彼はこの場合マコ.16:16のことばを引用したでしょう。"信じて(口で信仰告白をする者)バプテスマを受ける(死者から起き上がったキリスト)者は救われる"。

キリストの復活には地獄、あるいは墓と、人間性に対した教えの知識が含まれているのでとても重要なことです。必ず体得していなければならない事です。

ロマ.10:8、9はその13節に匹敵しているようです。"主の御名を呼び求める者は、すべて救われる"。パウロはバプテスマを受けるのがそのように主の名を呼び求めているのと描写しています(使.22:16)。バプテスマを受けるのは私たちが主の御名を信仰すること、すなわち、主の内に入るのを意味しているのです(マタ.28:19)。

バプテスマの重要性を節まえのロマ6章で力説したので、パウロは10章ではそれが救いに必要であると話していないのです。

ロマ.10:9はその6ー8節でこのように前提していますす。"あなたの心にうちで、誰が天に上るであろうと言うな。...だれが底知れぬ所に下るであろうと言うな。... では、なんと言っているか。言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。この言葉とは、私たちが述べ伝えている信仰の言葉である"。従って"信仰の言葉"は彼らが告白したことであり、9節の"主イエス"に匹敵することでした。私たちは福音を構成している教理の本体を描写した信仰がなんであるか分かるようになりました。パウロは"私が、今日、あなたに命じるこの戒めは、... 天にあるものでなく、... また海の中にあるのでなく、... この言葉はあなたに、はなはだ近くあって、あなたの口にあるものである"と申.30:11ー14を引用しました。彼はその"命じた言葉が"キリストに関して話していると解説しています。それと同じく、もしイスラエルがその言葉に従ったら、彼らは祝福されるのであったように(申.30:16)、新しいイスラエルがキリストにかんする言葉を信じるなら、彼らは救われるのです。従って口でキリストを告白するのはキリストに対するこの教えに値するのです。"もしあなたが主の声に聞きしたがったら"(申.30:10)はロマ.10:9の"自分の口で、イエスは主であると告白する"と言われた言葉に匹敵するのです。この匹敵しているものはまた"主イエス"とは神の言葉の基本知識を要約しているのを示しています。


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