聖書 基本 知識
学習 9:イエスの使役
イエスの勝利 | イエスの宝血 | イエス自身と人類のための祭物 | 人間の代表者イエス | イエスとモーセの律法 | 安息日 | 間違った解釈(十字架の刑, 12月25日は主の誕生日であるか)| 問題と解答

9.4 人間の代表者イエス

私たちは動物のいけにえが完全に罪深い人たちを代表することがで出来ないのを分かりました。イエスは"あらゆる点において兄弟たちと同じかった"(ヘブ.2:27)ために、私たちの代表でした。"彼はすべての人のために死を味わわれました"(ヘブ.2:9)。私たちが罪を犯す時、神は"キリストにあって"(エペ.4:32)、私たちを赦してくれます。これは神が私たちのように罪に誘惑されたが、罪を犯していないキリストと、私たちを比較するからです。従って神はキリストにある私たちは、彼の義に覆われているから、私たちの罪を赦すことが出来るのです。キリストが私たちの代表であるのは、彼が、神が彼の義を維持しながら、恵みを私たちに施す手段となっているのを意味します。

もしイエスが人間でなく、神であったなら、彼は私たちの代表になることが出来なかったでしょう。これは聖書の真理を誤っているもう一つの例です。これのために、神学者たちがキリストの死に対して多くの理解出来ない方法で説明しているのです。キリスト教界の一般的考えは人間の罪は神に支払うべき負債であり、この負債をキリストが彼の死によって、人間の代りに支払ったと言うのです。キリストは十字架で流したその血によって信者すべての罪の代価、負債を神に支払ったと言うのです。多くのいわゆる福音伝播会館でその福音伝播者がこのように話しているのです。"私たちはみな壁に並んで、悪魔に撃たれる刹那に、イエスが突然そこに現れ、私たちの代りにその悪魔に撃たれることによって、今私たちは自由になったのです"。

この骨折って作り出した話しは全然聖書の根拠がないのです。キリストが私たちの代りに死んだとすれば、私たちは死んではならない矛盾が起こるのです。私たちはまだ肉性を持っているので、まだ死ななければならないのです。罪と死からの救いは最後の裁きの時に現れるのです。私たちは此れをキリストが死んだ時に受けていないのです。キリストの死は、悪魔がキリストを滅ぼしたのでなく、彼が悪魔を滅ぼしたのでした(ヘブ.2:14)。

聖書は救いがただキリストの死によるのでなく、彼の死と復活によるのだと教えています。キリストは私たちのために一度死にました。私たちの代りに死なれたと言う理論は彼が私たち信者各個人のために一々死なれたことを意味します。

キリストが彼の血で私たちの負債を返済したとすれば、私たちの救いにはる当然の権利が生ずるのです。もしイエスの犠牲がその負債を返済したのであると認めるなら、その救いが神の慈悲と罪の赦しから来る一つの賜物である事実は、その意義を失うのです。それはまた怒っていた神が一度イエスの血を見てなだめられたと言う意味になります。しかし神が見ているのは、お守りのマスコットとしてキリストの血に連結されいる私たち自身でなく、私たちが悔い改めて彼に似た者になろうと努力している、私たち代表者である彼の子であります。多くの'クリスチャン'の賛美歌と福音の唄がこの分野で多くの偽りの教理を含めているのです。彼らは人たちに聖書を理性的に教えるのでなく、大部分の偽りの教理を音楽によって人たちの心に教え込んでいろのです。このような洗脳をいつも警戒しなければならないのです。

悲劇的にも、"キリストが私たちのために死んで下さった"(ロマ.5:8)と言われたのを、'キリストが私たちの代りに死なれた'とその意味を間違っているのです。ローマ書5章とコリント前書15章の間には多くの連結があるのです(実例、12節=コリ前.5:21; 17節=コリ前.15:22)。"キリストが私たちのために死んで下さった"(ロマ.5:8)は"キリストが聖書に書かれてある通り、私たちのために死んだ"(コリ前.15:3)と釣り合っているのです。彼の死は私たちの罪が赦される方法を作るためでした。"キリストが私たちのために死んで下さった"とはこの意味です。その"ために(For)"と言う言葉は必ず'代わりに'と言う意味になるのではないです。キリストが'私たちの代りに死んで下さった'のでなく、"私たちのために死んで下さった"のです。これゆえに、キリストが'私たちの代わりでなく'、"私たちのためにとりなしを"することが出来るのです(ヘブ.7:25)。その言葉"ために(For)"は'代わりに'を意味しないのがヘブ.10:1とガラ1:4に示しています。